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2020-06-06 06:05:00

僧侶の存在意味‼️

「仏の尺度で考えよ」と、よく「真宗の法話」で聞く。

それは人間の思考は「自己中」になりやすいからである。

 

けれど、だからといって「自分は間違っている」と思えば、余計に間違ってしまうだろう!

 

つまり「仏の尺度」は、真宗的には「法蔵菩薩の願い」にあらわされていて、その願いが「なにを教えているのか」ということを学び、実行することである。

 

たとえば「第一願」には、「いのちに本来、地獄や餓鬼や畜生があるわけではない」という内容がある。

 

この願いからは「あなたや人間のいのちを、だれまたは社会のどういうところが、どのようにして、地獄や餓鬼や畜生にしているのか」という智慧の観点を持つことを学ぶことができる。

 

そういう観点を学んだら「そういう観点から世の中を観察すること」ができるようになる。

少なくとも「そういう観点で見なければいけない」と思えるようになる。

 

いまの「コロナによって地獄や餓鬼や畜生」のようになっていないか?

なっているとすると「なぜなのか?」と考えて、ものごとを深く見るようにすることができたら、今までと違う世界が見えてくる。

 

ならば「あえてマスクをつけない」という、見えたところからの行動をなにをいわれようが、ブレないで示して行くことが「真宗の行」ということである。

 

逆に「コロナの事情はわかったから、あえてマスクをして、みんなに融け込んで諭して行こう」という方向性もあるだろう。

 

けれど「報道やみんな(これを社会という)がいうから、マスクをつけて家に閉じこもる」なんていう態度が「地獄や餓鬼や畜生を生む」のである。

 

同じ観点からの観察においても「違う行動」はあってもいいのである。

 

けれど、社会と同じように振り回されて「とにかくマスク」「とにかく外出禁止」なんて、とても「マトモじゃない」といえる。

 

僧侶は「思想家であり哲学者」でもあるといえるだろうし、時代背景や状況判断を、より〈いのち基準〉から見て「間違わない方向性」を歩むことが「社会にとって存在意味をなす」といえる。

 

世間と同じ観点でいることが「仏の尺度で考えること」ではない!

 

仏の尺度、「法蔵菩薩の願い」から見たら「このように見えてきた」という探究心や行動力をもって「仏を行じること」がなければ、価値も意味もない!

 

キレイゴトで済むようなケースではない時ほど「仏の観点」が必要であり重要だといえよう。

 

かの「マザーテレサ」は、戦火の下にある「学校の生徒」を救うために、「爆弾の中に飛び込んで行って生徒を救った」ことがある。

 

この行動に出る前に「周囲から、そのアイディアは間違っている」と言われたマザーテレサは、「これはアイディアなどではない〈義務〉なんです」といって駆け抜けたという「ビデオ」を見たことがあるが、あの迫力をして「爆弾の中を進む」というのは、まさに「無謀ではあるが、宗教者の義務」はこういったところにこそあると思ったほどであった。

 

いまや「だらけきった時代」に、こういう状態が起こって、宗教者までもが「意図的な報道(プロパガンダ)」に踊っていては、その「仏の観点」「法蔵菩薩の願い」にどういう価値があるといえるだろうか‼️

 

先の文章はこういう意味を「歎きをもって書いた」ともいえる。