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2020-06-13 08:00:00

救いは二進法である‼️

【救われる】

ってどうなることだろう。

 

自分はなんのためにあるか?

そして「他人」や「いのち」がなぜあるか?

 

そこが「自己満足な救い」では「真の救い」とは言えないだろう。。

 

およそ「仏も神」も「わたしに近づけ」と促しているのだろう。

仏教でいう[方便]はウパーヤといい近づくという意味である。

 

「神」は「およそキリスト教の神」を指すが、、

「仏教」は「常一主宰」という文字に表される内容の「神」を認めないけれど。。

 

それは「バラモン教のブラフマン」という神を指していて、キリスト教のそれではない。。

 

ことに「大乗仏教」以後は、欧州中東からインドや中国にかけてキリスト教と仏教の交流があったという、さまざま研究があり「経典や聖書」には似通った内容がいくつもあるけど、どちらの「聖典にも、それぞれの名称は出てこない」。。

 

「基督教にいわく」とも「仏陀はパウロに告げた」なんて記述は知る限りにおいて存在していない。。

 

しかし「互いには明確に同じような譬喩」があったりする。。

 

また歴史的にも「文化交流」が盛んだったと言われる。。

 

ここで言いたいのは、そもそもこの時代においてひとは「仏教とかキリスト教」というセクトにこだわらず、各々にとって「仏陀とキリスト」は同じだという認識だったのかもしれない。。

 

大衆にとっては「同じ偉人聖人くくり」だったのかもしれない!

 

各々が段々と組織化していく中で、セクトが生まれたのではなかろうか。。

 

「仏陀を最高の覚者とし、キリストを神と同じ」なんていうふうに決めているのも、各々において「本人」ではない。。

 

わたしは、各々を一体としてみたとき、さらに深い救いが得られるように実感している。。

 

「仏の智慧と慈悲を得る」「神が人間の罪を贖って愛を与える」「阿弥陀如来は人間の罪業深重に気づかせ、四十八願の道を与える」

 

こう言ったことは、「内容的には同じであり」すべて「いのちの目指すところを教えている」これが互いにストーリーだから「別モノ」のように「セクト」としてこだわっているだけなのではないだろうか。。

 

「いのち」は〈仏〉や〈神〉の「世界観(真理)を実現するためにある」という「サゼッション(誘引)」において、各々の広まった地域や人種に合わせた表現がされているだけではないだろうか!

 

もともとの「欧米人やユダヤ人」と「インド中国や日本」では「基本的な民族性が違う」から「別モノ」になっているだけであると言えないだろうか。。

 

「ネイチャー」を「驚異」として「神」としている「遊牧民」と、、

「ネイチャー」を「恵(めぐみ)」として「法 धर्म Dharma(ダルマ)」としている「定住民」の民族性による表現の違いではないだろうか。。

 

「大乗仏教」は「いのち」が仏によって自然法爾に達するための教え。。

「キリスト教」は「いのち」が神(ネイチャー)の創造物だという教えから自然法爾に至ることができる、、

という、結果互いに同じ構造になっている。。

 

これらは「論理的に結論的な違いはない」が、「ストーリー的な違いが全く違う」という印象を与える。。

 

けれど、各々において「救われている人」には、同じ状態が起こっている!

 

「いのち」を「賜りもの」として、そこで「礼拝」をし「屈服」し、「智慧を得て慈悲や愛の行動を行う人になっている」ことは間違いない。。

 

「大乗仏教の一如という真理」も「神と人間」という「二の真理」も同じであり、「一が生まれて二になる」という「ゼロと一(神とわたし)の二つ(二進法)」から「多様ないのちのありようが生まれていく」という発想のなかで、、

 

わたしもあなたも「いのちは同じ」(一如)という前提から、「いのちは認め合い、智慧を交わし合い、慈悲を施し合う」、、

 

つまり「二によって一如が成立する」ということが《救われた状態》になってる点においても「論理的構造」は同じである!

 

ここにおいて「仏(または法धर्म Dharma)や神(God)という真理によってそうなった」という論理構造だからいずれの教えからも《救われた状態》は、、

 

「いのちが互いに智慧を磨き合い、愛を施し合う」という状態になるということである!

 

「わたし一人では〈真の救い〉は生まれない」という「深い意味」がこれらには込められている。。

 

それは「筆舌に尽くせない領域や境地」であるから、、

ここではここまでに留める(長くなったけれど😁)‼️