インフォメーション(日々更新中)
2020-06-15 02:07:00
二進法と二元論‼️
一如という仏教の「一元論」においては、「無我や空」を根元としている。
そこで「わたし」という「一」が生まれて「ゼロと一」の「二」になるということを以前に記述した。
これは「二進法」として、いのち「命根(みょうこん)」が動き出した時に「いのちエネルギー」が進むなかでの「二」であるから、「二元論」を表しているのではない。
先述した「あやまること」による「終了」は、「なにも生まない」ということと同じである。
「あやまる」よりも「なぜそうなったかを互いに考えて、互いに前進すること」が智慧と慈悲を生むのである。
「一如」という状態では「なにもスタートしていない」けれど、「わたし」という「一」が生じて「ゼロと一」の「二」になった時、「一如から来生」するという「如来」が発生(スタート)する。
つまり「あくまでも如来はわたしと共に生じ、わたしと共に滅度におさまる」ということである。
そしてその「滅度=薗林遊戯地門(完全利他)」だとしても、それは、わたしという命根が「現生」において「利他ること」と因果同時からの「未来(未より来る)」状態を定義しているということを意味しており、、
逆に、今のわたしの命根のベクトル(方向とエネルギー)を表しているということであり、現生に「智慧と慈悲を行じる」ということである。
「如」という「無我、空」の一元から「わたし」が生まれて二進となるという意味はそういうことを表したものである‼️