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2020-07-05 02:59:00
利害関係にある論理‼️
人間種の脳は「非常に複雑な回路であると同時に、社会も複雑ですから、「利害」というのは「立ち位置」や「論理」においても変わるというのはお分かりでしょう。
たとえば普通のビジネスでも、その商品は必要なのか?
というと「必要ではないものを必要と思わせて成り立っている」という商品がほとんどです。
そこで「売り手と買い手の利害関係」についていえば、「いらないものを必要だと思わされている」という観点から論じれば、
「買い手は売り手に騙されている」ということになります。
平たくいえば「美容は必要でしょうか?」「スーツは必要でしょうか?」という命題に「現代の常識が関係」してきます。
戦後の経済成長がなかったら、必要のないものだったけれど、時代(資本主義)の成長によって「あたりまえ」となってきたものならば、
「原始人間種においては不要なもの」です。
個人的な「利害関係」にも同じことが起こっています。
こんにちに於いて「利害」といえば「お金の問題」が中心になるでしょう。
「このひととお付き合いすれば利益になる」という「利益は金銭的側面」がメインになるでしょう。
これとても「資本主義」でなければ「原始人間種」には不要な「利害」と言えるでしょう。
「このひとといれば、金銭的にリスクはあるけれど学ぶところが多い」というひとでも「メンター」だとかなんだとか言いながら、、
結果「損にしかなっていない」という事例は枚挙にいとまがありません。
結果そこで「得るものがなければ、その人とは関わらないようにする」ことになるでしょう。
しかし「地方に帰って親やじいさんばあさんなど」のいうことの方が、ほんとうに身になることを教えてくれても、
「所詮、田舎のおっさんの言うことや」と思って言うことを聞かないものです。
つまり「本当の〈利と害〉の判断がつかないひと」が「利害関係」を論じても無意味なのです。
「なにを利とし、なにを害とするか」という命題をミスっているからです。
「金にならん、つまらないおじさんの話を聞くより、メンターさんの方が良い」なんて思っているひとにとって、
「うるさいおっさん」は害であり、「メンターさん」は利であるなんていうのは、
前提においてミスっていると言わざるを得ません。
まして「わたしは害にしかならない」と自認できていないひとが「なぜそうなったか?」といえば、、
ここにも「社会背景」があると言えるでしょう。
現代資本主義において、わたしは「利になることがわからない」という自己判断をしているなら、
単なる「時代の犠牲者」と言えるでしょう。
つまり「人間種は基本単独で生きられない」という前提において、「民主主義において多数派の意見に従えるような利害という観点が定着しています」から、
「少数派の意見は通らない」という「思考停止」をする傾向にあります。
ここで「社会がどうであろうとも、自己肯定感のなかで社会に潰されない論を立てるには勇気がいる」のです。
そもそも「利害」という概念は、「誰にとってどうなること」を指しているのかという前提が不明瞭だとも言えるのです!
「論を立てる」という意味において「社会環境などに左右される」「大局的見地から見られない」という社会になっている以上、
さらにそれが難しくなっています。
「国家がどうあるか」ということより「明日のおまんまをどうするか」という見地から「論は立てられない」と言えるでしょう!