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2020-07-10 03:54:00

めんどくさいかも(再び)❣️

「至心信楽の一心」を「プラサーダ」で「浄心」定義するなら、

「信楽の一心は浄心」になるというところからも、「往生は現生定義」でなければ、成り立ちません‼️

 

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すべては「情報の発信者と受信者」が「言語または画像で定義した世界」を生きていますから、

《人為》が入るのです。

しかも「情報の発信者と受信者」が「言語を同じ定義で生きているとは言えない」という《大問題》があります。

 

人間が「現在までのコンピューター」とは違い、「知、情、意」で思考している以上、

「まったく同じ」にはならないため、基本的には「アインシュタイン」を待つまでもなく、

「すべてが《同じ次元を生きている》とは言えない」のです。

 

だから、同じ宗教の「布教者」によって「聞き手」が同じ次元の内容を喜び、かつ同じ宗教の「別の布教者」が「同じ文言で、違う次元の話をする」と「わからない」ということになります。

 

外国語を「翻訳」するときに、ある翻訳者が「日ごとの《糧》」という翻訳をしたケースにおいて、

この外国語を「別の翻訳者」が「食べもの」と翻訳した時に「先の翻訳者」が《いのちを生かすことがら全てを指して翻訳した》としても、

文言通りに「食物」と「理解するもの」がいれば、

前者の「翻訳」の「糧(かて)」という意味が、事実上「狭く(せまく)」なってしまいます。

 

つまり「糧」を、後者の「翻訳」では、「食物限定」に狭められたことになり「次元」に変化が起こります。

 

そこで布教者Aが「食べもの」と書いているけれど、「じつは深い意味があって云々」とわざわざ説明しなければならないことになります。

 

しかし、布教者Bが「毎日食べものが与えられているのは神(または仏)のおかげです」といってしまうと、布教者Aと「次元が変化」します。

 

つまり「信心」は、「サンスクリット語ではプラサーダといって「浄心」をあらわします」

と、「学者らしくいってみても」「サンスクリット語」で「プラサーダ」と記述されている「意味不明な文言」が、「浄心」と翻訳された時点で、「なんとなく理解できる言語になり」ます。

しかしここに先ほどの《大問題》が生まれます。

それは、この「浄心」を説明する布教者によって「定義がほんの少しでもズレ」ると、《全く次元が変化》するということです。

 

現代の「中国語の共通語」で、日本語の「声」を中国語に翻訳すると、「声音」になり、「音」を翻訳しても「声音」(Shēngyīn)になります。

このケースでいえば、「前後の文脈やシーン」によって解釈が変わります。

 

このように、わたしたち人間は、日常的に「同じ言語で、違う次元を生きている」ので、

なにが「真実か」というテーマは、じつは人ごとに違うのです。

 

なにが「真実か?」というテーマは「多数派や論理的か、または権威」といった基準で「判断」されていますが、

これにしても「操作された多数派」ということもあり得ます。

 

「ダーウィン」を「多数派」として、「論理的」と考えている「ヒト」が多いと思われる日本においては、「あたりまえのように《進化論》を信じる」という状態になっています。