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2020-07-14 03:13:00
ひとはなぜ擬人化したがるのでしょう?
私見です。
日本では「太陽」を「お天道様」といったりしますが、
たぶん、日本人は「すべて神」であり、そのトップが「天皇」という歴史があるのではないかと思います。
そういう意味で「お天道様と雲」はセットで「お天道様」が雨を降らせてくださった。。
という表現をしたりという意味では「お天道様」は「太陽以上に広い概念」なのかもしれません。
そういう意味でも、「石や樹木」にもなんらかの「神的な要素」をみているから、、
到底論理的には理解できない「石」を拝んでみたり、「御神木」だとかいってありがたがったり、
「御神体は鏡」だったりという、意味不明な信仰があります。
また、仏教でも「論理的な思想や哲学的側面」よりも、「阿弥陀さま」という「擬人化」した信仰が自然に溶け込むのでしょう。
阿弥陀如来は「字も読み書きできない、抽象概念のわからない時代の人」に「法 धर्म Dharma」を人格化して表したものと論じても、
やはり「阿弥陀さま」の方がしっくりくるという「寺生まれの若い僧侶」はいいます。
日本人には「論より情動」の方がいいのです。
つまり日本人は基本的に多神教の文化で、「論よりストーリー」という文化ですから、
そのうえに「戦後教育」で「考えない、論じない教育」を受けているので、
「太陽や気象論」よりも「お天道様」の方がいいのかもしれません。
とはいえ、その方が「もったいない」とか「物にも命を見る」という、
感謝の文化が基本になっていて、「米粒ひとつの恵」を大事にするという意味では、
世界に類を見ない文化といえるでしょう。
「虫でも、虫さん」といえる文化です。
しかし、最近はそういう文化も「どこへやら」となってきており、
無理くり「ありがとう」と言わされているだけで、
心から「うれしいね!」「ありがたいね!」ということが減っており、
形式だけになっているのは残念な気がします。
「擬人化すべきこと」と「論じるべきこと」が不明瞭にもなっているように思います。