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2020-07-25 04:16:00

ひとは死なない❣️(生命体の本質)

私たちは、「現象」を「五感」という感覚器官で受け取り、「脳」によって「各人」の「世界観」に置き換えられます。

ここで「脳による」ということについて、「各人の経験やDNA」によって「世界観」はじつは全く違うといえます。

「視覚」の一点を取ってみても、凹凸のある「網膜」に取り込まれた光の映像は「上下逆に写り」それを「脳の経験値やDNA」による反応によって「反転させて」、「これはスマホ」というように理解をします。

 

けれど「認知症」のような極端な例に関わらず、じつは「各人」が違う世界観に置き換えているといえます。

これは他の感覚器官でも同じであり、その「脳内」で起こることは「宇宙的な全体世界」と密接に関連しており、「個人と宇宙(自然法爾)」において成立することです。

 

つまり「すべてが電磁波」であったり「振動」であるなら、存在物のすべてに「原子レベルの振動」が常に「わたしの脳内の世界観」に影響を与えているということがわかります。

 

そしてそれらは「人同士や人と物」の間でも起こっているといえるのでしょう。

 

そういう意味において「すべての存在は常にあり続ける」ということが導き出されます。

壊れた「物質」でも「わたしの脳内においてあり続ける限り」脳内において「振動として」あり続け、それが「宇宙的振動に影響する」ということになります。

 

これが「他者との関係」においても同じであるといえるので、「死」という壊れたように思える肉体においても「誰かの脳内における振動」としてあり続ける限り、「死んだ人は宇宙レベルで生き続ける」ということが成り立ちます。

 

こういったことが「華厳経の一即一切」に明かされているのかもしれませんが、

わたしの「生命体が持つ世界観のなか」において、「死んだら何も残らない」「死んだら終わり」と考えるのは「不適格」といえるのかもしれません。

 

上記のように考えていくと、「わたしの世界観」は宇宙レベルと永遠の時間軸のなかにあり続け、「生命の本質」はわたしの認識を超えて存在するといえるでしょう。

つまり「生命」は死んだりするのではなく「永遠の時間軸と次元」のなかで存在し続けているといえるのかもしれません。

 

そういう観点から思考すると「誰かの生命体」が日々「怒り」の中にいるとすると、その生命体の振動は「怒りの永遠性」に住することになり、「愚痴の生命体」は「愚痴の永遠性」に住するといったことになるかも知れません。

 

そういう意味で「さとり」を求めて日常に「仏の智慧と慈悲心」で生きることが「その生命体が悟りの永遠性に住する」ことになるといえるでしょう。

 

これが「キリスト教の愛の神の世界観」でも同じであるといえます。

そういう意味で私たちは日常的に「高次元の永遠性を求めることでそういう振動の世界観をもった次元に、いまから住することになる」といえるので、「高次元の精神世界に生きること」が重要なのだと「覚者」が、、

その時代に応じた表現で伝え残してきているのだと目覚めさせてくれているように感じ、世界観の広がりを体感しています。

※科学において「振動=揺らぎ」とも表現されます。