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2020-07-26 21:35:00
仏教は「仏になる」ということを目指しますが、これは「人間を辞めるということ」ですか?
おもしろい観点ですね。
そもそも「一般社会」でいう人間と、「仏教」でいう人間と定義が違います。
仏教では「人間とされる特性」をもっているからといって「人間」とはいえません。
簡単な事例でいうと「六道」という説明原理があります。
これは「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天」というあり方がありますが、これは死後の輪廻の話しというよりも「いまのわたしのあり方」について言っています。
日々、苦しいと言っていれば、そのひとは「地獄」を生きています。
日々、むさぼっていれば、そのひとは「餓鬼」を生きています。
日々、ひとを騙すなどと愚かな生き方「愚痴」の中にいれば、そのひとは「畜生」を生きています。
日々、怒りを生きていれば、そのひとは「修羅」を生きています。
日々、あれは良いこれは悪いと自己中的な分別に迷っていれば、そのひとは「人」を生きています。
日々、楽しいことにふけっていれば、そのひとは「天」になります。
このなかで「人」の「分別」が「怒りや愚痴むさぼり苦しみ」の元になり、
また「分別」が「楽しい」という気もちにもさせますが、「明日はまた仕事だ⤵︎」となれば、苦に「退転」します、
つまり「人」がする分別を「虚妄分別」と言って、「自己中」である限り、正しい観点から正確な分別ができないので「ひとは六道を日々巡ります」から、
この「虚妄分別」を脱出することを「解脱」といい、正しい思考を身につける、これを「真智無分別智」といいます。
「分別を超えること」は「出来事に良し悪し、好き嫌い、などの分別をしないこと」です。
「健康と病気」「お金もちと貧乏」「生と死」などという分別をすると、ひとは「前者を選ぶ」でしょう。
しかしながら、「後者」がひとを育てたり、じつは得る物事があったりすることも多いのです。
そういう意味で「六道」に表されるような「人(虚妄分別)」から「解脱」することを「さとり」といいますから、
身体的な「人間」を辞めるのではなく、精神的な人から「解き放たれること」をいっているのです。
そういう意味では精神的には「人間界をやめること」になります。
言い換えると「精神的な次元の変化」が起こってくるということです。
わたしも行者として「人間界」にはいないという観点から、こういったことに回答をしています。
そういう意味で「どうしたらお金儲けできますか?」といった意味内容の質問が多いことに呆れています。