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2020-07-27 04:30:00
初心者が「初期仏教、部派仏教から大乗仏教まで」を体系的に学ばれる本を教えてください。
この問いは、非常に難しい問いですね。。
この問いのなかの「部派仏教」についてを含めている本はなかなかないんです。
しかも興味本位ではなく教義をしっかり学ばれたいようなので、いい加減なものをご紹介するのもどうかと思います。
部派仏教について、わたしのホムペで言及している内容を添付してみます。
ーーーーー(各項目の数字は気にしないでください)
「説一切有部について」
127、有はあるか?
説一切有部の論を「倶舎論」として、世親は「存在について五位七十五法」は有であると論じた。
しかし、龍樹は「我も法も空」であるとした。
そして存在は「仮和合」と論じたが、「和合する元になる」当時でいう「五大」は存在するのか?
五大も空であるなら、すべての存在を説明できない。
なんらかの有があって「存在」は成り立つ。
龍樹は、すべて「空」であるが故に、空もまた空であるから「空亦復空」と論じているが、
「空」も「亦復空」ならば、「亦復空」を成り立たせるなんらかの「有」がなければ、
「仮和合」すら起こりえない。
そこで、世親は「唯識を論じて」、「五位百法」の有を論じて、それは「阿頼耶識」に薫習される「種子」だとした。
これは量子論でいうところの「量子」であり「元素(原子)」であるといえよう。
また、「一般相対性理論」の「光の速度とそれ以外の速度」において観測される時間のスピードは異なるけれど、相対すると「同じ」と観測されるけれど、事実は「次元が異なっている」、つまりすべてのひとや存在は、まったく違う次元を生きているのに、同じであると錯覚しているということと変わりがない。
あなたがなにをどう認識しようと、それはすべて「あなたの認識」でしかなく、他の人は「まったく違う次元にいる」ということがわかっていないということを意味する。
そういうことを「唯識論」はいっている。
こういう論が「人間として生きていくうえでの世界観」そのものであるから、Aが感じている世界はすべてAの「世界観」でしかない。
昨日までに少しお知らせに書いたことは、Aの世界観のなかで起こっている「状態」でしかない。
だから、お知らせは、AがAに向けて「知らせたこと」でしかない。
こういう「仏教の論」は「真理であり」、「物理学も真理」であると言える。
Aの認識の中の皆さんはどういう「認識」を生きているのだろうか。
126、量子は有るか?
中観派の「空」でいえば、「すべてが空」なので、仏教でいう「五大」(現代でいう量子)さえも「空」であって、それの「仮和合」したものが「存在」だというけれど、ならば「仮和合」の元になる(量子)も空であるなら、「存在の本質はなんなのか?
そこで「アビダルマ仏教(部派仏教)の犢子部」が言っている「プトガラ」だとすると、これは、「我」としての実体と変わらない。
そこで世親が「倶舎論」で「無表業」といっても「あいまい」なので、
結果「唯識論」を説くことになる。
諸法が空なら、「なにも存在し得ない」「五位七十五法ないし五位百法」は「法有」として「有」と言わなければ「存在自体がありえない」。
しかし「無我、空」を認めるなら、「阿頼耶識」という「識」のみが存在して、「法を認識の上から」存在として「認める」ということを論じたのです。
部派仏教の有部の時点では「世親」も、「我は空で有るが、法は実在」という「我空法有」を主張しなければならなかった理由である。
125、輪廻をDNAにたとえるなら。。
輪廻の主体「なにが輪廻しているのか」ということは、さまざまに議論されていますが、
とにかく「この人間種」を相続させている「なにか」があるのかないのか?
これを「アビダルマ仏教」(法の考察をする部派仏教)では、「命根」っていいますけど、
現代的にこれをDNAとした場合にも、人間種が生まれて700万年(1世代30年とするなら)
23万世代交代していて、両親の両親って計算すると「莫大な先祖の命根を受け継いでいる」と考えられるうえ、人間種の中にあるプログラムやデータは膨大な量であると言えます。
このデータやプログラムを「どう生きて」「DNA」の枠から解脱するのかっていう観点から見れば、
輪廻がいいたいことはそういうことであると考えるほうが「仏教」として「意味がある」論になります。
ーーーーー浄土真宗西念寺別院ユニバーサルカレッジ
以上のように現代の人にわかりやすく書いているつもりですが、これが難しいということですと、まずは「初期仏教」と「大乗仏教の空と唯識」を学ばれると良いと思います。
そして「初期仏教」は「中村元」氏、大乗仏教はいろいろありまますが「高崎直道」氏のものが良いでしょう。
なかなか本屋さんにもきっちりとした仏教書がない時代なので、ネットでは中身が分かりませんから、できれば、京都の「法蔵館」や「永田文昌堂」さんにお尋ねになると良いと思います。