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2020-07-31 00:11:00
DNAや環境に支配される人間に自己責任は問えるのか?
この問題は、仏教界でも明治時代から解答は出ていませんが、
法律の問題を差し置けば、仏教だけではなく、2つの観点があります。それは、
1、人間は自らの選びのなかで生きている。
2、人間はなにひとつ選んではいない。
というものです。
1、のケースは、「人間が人間として生まれてきた意味や理由がある」という前提で、輪廻転生などを元に語られる観点です。
2、のケースは、「人間に生まれたのも、ここで生きているのもすべてが〈偶然的〉なこと」という観点です。
倫理や意味を問うひとたちは「1」を主張します。
しかし「生まれも育ちも選んできたのではなく、選ばされてきた」という事実に観点を置くひとは「2」を選びます。
この観点で言えば「自己の選び」も「誘導された、選択肢に限定がある」ということを事実と考えるからです。
いずれもどちらが正しいかを問うのは「神」がいるかどうかという問題にも匹敵するでしょう。
そこで「仏教の観点」に戻れば、「初期仏教の研究」が進んでいる現代においていえることは、
そもそも「無常、無我」というあり方が「真理」であるなら、「自己」は存在しないことになります。
また「責任」という概念も「社会」があることから生まれる概念ですから、この問題は「対機説法」によるといえます。
つまり「責任逃れ」を考えているひとには「自己責任の重要性」を説き、
「自己責任感」に潰されそうなひとには「そんなに自分を責める必要はない」と説くことになるでしょう。
つまりこのことについて「回答」は、「なんらかの問題に関して」その関係者がどういう姿勢かということに帰結し、
普遍的な解答はないといえるのではないでしょうか。