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2020-08-24 21:10:00

教行証文類の概要の概要‼️

言わずもがな、仏教っていうのはもともと智慧から始まっています。

 

釈尊は、「苦悩の解決を求め、悟りに至った」というのは、苦悩を解決するために存在と人間の真理に目覚めたということです。

 

そこで目覚められた、現代的に言えば発見された真理は「色も形もない法そのもの」ですが、それを俗世間(人間界)に合わせて言葉にされた。

 

そこで大乗仏教の浄土教では、悟りをアミターバ(智慧光)という風に言語化して、その言語の表す悟りの智慧を天親、曇鸞さんでは「無碍光如来」という言語で讃嘆されているわけです。

 

そしてそのアミターバの寿命は無量であるということで、アミターユスという言語もあるわけですが、親鸞さんは光明系ですので、ユスよりバを重視されています。

 

そこでアミターバという智慧の根源は真理ですから、真如縁起により全ての存在の根源はアミターバだという結論になります。

 

真理(色も形もない法)→智慧→光明→アミターバ→諸仏や衆生→真理を根源とする→智慧→光明→アミターバと循環します。

 

このように、諸仏は結局阿弥陀の応身であり、衆生は化身であるととらえることで、私たちの認識を悟り(真理)に促してくださるのが天親の唯識に原点があるのでしょう。

 

換言すれば、私たちは真如の中にあるのだけれど、煩悩のまなこがその真実をさえぎっているのであるが、阿弥陀の智慧に出会うことで、「私は煩悩の中で有無にこだわっていたなぁ」と龍樹の中観である空有の存在だと知り、私の認識が変わって「煩悩は悟りに転じる糧」となり、私たちのいのちの向かう方向が「悟りという方向へ転じる」という仕組みを曇鸞さんから親鸞さんは学んだのでしょう。

 

ですから親鸞さんは五念門五果門を重視され、五正行以上に引用されています。

 

つまり阿弥陀の智慧の光明に出会い、信心という方向転換が起こり、悟りへとウパーヤ(近づく)されて行くということで、そのプロセスの中で諸仏や衆生に関する見方が変わって行くということになるわけです。

 

諸仏も衆生も真如縁起されたものである。

阿弥陀は真如そのものであり、そういう智慧を言語化して表すと光明であるということ、そして私がウパーヤされる中で至るありようが、真如一如であり阿弥陀となって報応化することになり、還相の菩薩と垂迹して衆生済度にあたるということを証文類に表されており、教行証文類の筋が通ります。

 

これは布教や組織を作る原理にはなりません。

あくまでも親鸞さんのように求道者、真の念仏者にしか実体感できないことをあえて教行証文類に論理化して著されたという性質のものです。

 

真の仏教は浄土教であれ、無我、空、阿頼耶識の種子の状態を空化する法であり、真如一如を体得する実践ですから、人間界を生きるものとしては「ありがたくも歓喜することでもありません」

ただ「たんたんと歩む悟りへのプロセス」でしかないのです。

 

法話や仏教に感動を求めても、それは自我の延長でしかないのですから、感動する話にはまだ悟りへのエキスが足りないと思われる方が良いと思います。

 

念仏に生きるということには、念仏行者としての厳しさがあるのです。

 

布教使、講師は、平均で大企業新卒社会人の1ヶ月分ぐらいのお礼をもらうのですから、喜ばれるような話をしたがりますが、「不浄説法」きわもなし。

 

真実を語るべきなのに、私の周囲だけではなく、全国的に宗派を問わず「仏教を語れない僧侶」がどれだけいるか。。

仏教議論のできない布教使、講師が多すぎる。。

全国区の布教使と話していても仏教談義が通じない布教使ばかりであることに唖然とします。

 

その上、ギターやキーボード、パワーポイントなどで座興のようにごまかした布教がいかに乱立してきているか。。

 

「私は勉強不足なので、この映写をみてください」という住職の方が誠実さを感じますが、布教使がそれをやるのはごまかしでしかないと思うのは、私だけでしょうか? 

 

 

親鸞さんは阿弥陀仏のことを特別な場合を除き、あくまでも浄土論の無碍光仏と言われるのだと学びました。

 

それはあくまでも浄土論の讃嘆門を行じているということが、念仏の行者の立場ですから、それしかないのです。

 

どうしてそこまで浄土論ないしは論註にこだわるのかというのが、昨日投稿しましたように、善導は「ファンタジック」でしかなく、さらにいえば、法然さんは観経中心なのになぜ親鸞さんは大経なのかということで言えば、観経は「ファンタジックストーリー」であり、四法印乃至は三法印がないのです。

 

今では観経中国撰述説まであるぐらいですから、親鸞さんのように根拠を求めるタイプの人は阿弥陀と浄土の原点はなんなのかと追求すると、

 

大経になり曇鸞になります。

そこにはたとえば「往生」は「無生の生」であるといった中観的論が展開され、大経でも「阿弥陀仏は眩しくて見えないほどの光明である」といった論がしっかりあるからだと学びました。

 

真仏土文類を見ても、真の仏も土も光明であるとあり、阿弥陀仏という仏の根源は光明であるという「色も形もない実体のない智慧という存在」だという仏教の根源に等しいことが明らかです。

 

ですから真仏土文類を読み進めると「真の仏も土も光明→それは智慧→それは涅槃→涅槃の徳とは」と進んでいきます。

 

そして阿弥陀仏の根源を明らかにした上で、如来(直接的には釈迦)は資質を見るに長けている。

そこで我々のような資質のものには阿弥陀仏の教えがふさわしいという意味のことが示されます。

 

そして、化身土文類に至ると、末法を強調され、末法の時代の私たちには「阿弥陀の教えによるしか、仏の智慧を得ることができない」ことを仕切りに訴えかけられて、「大智度論」を引かれ、有名な「月を指す指」の例えによって、

 

「指ばかりを見ないで、人間の分別を超えて、仏の教え(月)によるべきであること、真実の智慧によるべきであること」を強調されます。

 

このように教行証文類を見ていく中で、各所に「浄土論に「無碍光仏」とあるように」といった言い方が出て来ます。

 

親鸞さんには、あくまで浄土論ないしは論註が根源にあるのです。

繰り返しますが、七高僧の中国以降の高僧で「仏教学の論拠」が明確なのが唯一「論註」なのですから。

 

また五念門行は五果門に至りますが、就中、第五果門の薗林遊戯地門(利他)を重視され、五念五果は阿弥陀如来の智慧と慈悲の全てをおさめているから「論註」なのでしょうと学びました。

 

そして冒頭に戻りますが「讃嘆すること」を重視されるのは、第十七願によるのみならず、実質的に讃嘆の行は「私という我」が破られていく状態だからです。

仏教の無我、空に至り、真如へ至るプロセスだからだと言われます。

 

名号徳は万徳と言われますが、名号を讃嘆する生活の中で仏の智慧により、「煩悩が私を破る功徳に転じてさとりへ導くキッカケになる」(転悪成徳の正智)のですから、煩悩が多ければ名号徳も多いのです。

 

煩悩即菩提とするのが名号徳ですから、煩悩や何ものにもさえぎられない無碍光という讃嘆名が究極阿弥陀の性質の最高の讃嘆名として天親は大経から用いたのでしょう。

 

親鸞さんはご本尊として「帰命尽十方無碍光如来」をよく用いられたのは、そういうことだと学びました。

 

ちなみに「月を指す指ばかり」見ていると「地獄行きの私が阿弥陀さんに救われて」というストーリーにとどまり、そのストーリーの言わんとする「仏の智慧」を見失ってしまいます。

そういう状況を明恵上人は「浄土教は菩提心がない」と批判されたのでしょう。