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2020-08-26 00:58:00
「正しさより相応しさ」シーズン2
布教使や僧侶の話は「乗ってないお客さん」に「乗ってるかぁ!」っていうてよがっているロックコンサートみたいなもんやね😆
化身土文類でわかったように「偽」をも「摂取する」ほどの広大な教えは、
「正しいこと」に「はめる」のではない。
相手のもっている正しさを「受け入れて」そこに「変化を与える遊び」を与えるのが、仏法だと「親鸞さん」の深さがよくわかったから、
応答することができるように、こちらが自在に受け入れる体制を作ることなんだとわかりました😊
以前書いた内容から。。
敢えて真仏土文類に真実とは何かを伺います。
教行証文類の「真智無分別智」が仏教の智慧なのですが、自他や生死と言った分別を超えることです。
漢文ではない聖典をお持ちの方は、分別とか真とか智でひいてみて、該当するところを読めば、そのことが書かれています。
とにかく、親鸞が「信知」ということもいわれているように、信=知ないし智となるのですから、妄信すること(真宗〇〇学派は「仰信」につなげますが。。)ではないのです。
信心に如来の智慧が備わり、慈悲が備わり、「如来の名も悟りの名もない、無色無形の自然(無常、無我)」へ至る。
「如来は衆生の資質を知る」と真仏土文類のそのあとにありますが、
衆生の資質に応じて、言語とイメージ「教えと仏の認識するあり方」によって、「如来の名も悟りの名もない、無色無形の自然(無常、無我)」へ至らしめる法(ダルマ)が仏道なのですから。。。
必ずしも仏教である必要もない。
あのノーベル賞のノーベルは、ダイナマイトを発明し、「これが人間破壊に使われないよう」と生涯心配したが、結果「知より出でたものを情が使い間違って、人間破壊に使われるようになってしまった」のですね。
情が煩悩の根源(扁桃体の活動)
情に傾くと人間の破壊が始まるのです。。
やがてそれが自己破壊になってしまいます。
マザーテレサも神を聖書の通り信じられないまま、知性により感性のバランスをとりながら、結果、神については納得できずとも、あのような活動を生涯続けられたのです。
(マザーテレサの書簡)
信じられないものは「信じられないと告白」して、自他無分別の真実に生きた。
こういう知力は人間にとって重要であり、それは、前頭葉が破壊されない限り、成長できる。。
誰でも。。
「100%DNAに拘束される」ものではないから。
だから、必ずしも仏教である必要はないのです。
本来の仏教なら、仏願に智慧と慈悲を学ぶ真宗なら、そうなりやすいという方法論だということです。
誤解なきよう、知力のないものがダメと言っているのではなく、世親の唯識を背景として、「阿弥陀経」の鳥たちが阿弥陀の変化身であると書かれているように、すべては仏の変化身であると観察する。
わたしも据わりのなかで「救いのためにはなんでもあり」といった自在に自然に利他る!
これが浄土論あるいは論註の「五念門」です。
先般たまたま知人から。。
その人その人のフィットする道があっていいんじゃないか?
これでなければならないということはないのではとご意見をいただき、
そもそも仏教を教えてくださったお釈迦様は、その人その人にわかるように説法された。
この根っこがひとつだった仏教が、世界を見ると、なんと部派や宗派の多い事。
でも、こう言ったことは仏教だけじゃない。
というご意見がありました。
納得です❣️
そういう意味では布教は聴衆の方にフィットするように、仏の四十八願から
「さとりの智慧をいただき」「和合のサンガを目指す」啓発ということがまずすべきことです。
みんな自己都合だから、好き勝手に判断する。
というご意見があり。。
自分も求道者にはなれないと思いますという方がいました。
正直な方です。
求道者らしく振舞うことは、ある意味「えーカッコし」という
不真実も含む可能性が大きいので私の振る舞いはテキトーです。
寝たい時は寝るし。
everythingOK
その自然に任せるまま、ただそこに智慧があればストレス要因が減る。
人は勝手に自分にフィットするものを探しますから。。
それが餓鬼道だろうが、畜生道だろうが、その人はそれで居心地がいいんですよ❣️
心理学に「人生脚本」というのがあり、「自分はうまくいかない」って思っている人は、うまくいくことが居心地悪くなって無意識にうまくいかないように壊すんです(≧∀≦)
そういうもんで、みんな勝手に人生脚本(心理学用語として)を書くので、利他のご縁がなければ、サトリなんてどうでもいいんです。
世界中のひとに「布教できる」ものでもないし。。
法楽は、そうやって自然の中に任せ、智慧をもってストレス要因を減らし、利他のご縁に応じて悟りへと「利他る」っていう生き方だなぁと、
実践上思っています。