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2020-10-16 22:54:00
持たない❣️
報恩講に寄せて
中神章生
みなさん、いまの時代はいろんなことが次々起こって、数十年でムラも大きく様変わりしているのではないかと思います。
若いひとの思いもよくわからない、逆に若い人はお年寄りが生きてきた背景を知ろうともしない。
人間の世というのは、どんどん変化して、身近なひとの気持ちすら理解できないと多くの人は感じられているのではないでしょうか。
また、世の中では「コロナ」だとか多くの不安材料が報道されています。
このようななかで「ボンヤリと不安」のなかにいるひとや「怖いような不安」のなかにいるひとも多いことでしょう。
こういうなかで「仏壇」へ向かって「礼拝する」というようなことも忘れがちになっているかたもおられるかも知れません。
人によっては「神も仏もない」と思ってしまわれるのも納得です。
この世はそんなふうに「嘆きたくなること」がほとんどかも知れません。
そこで、「礼拝」という言葉をもう少し深く知っていただいたら、かなり楽になっていただけるのではないかと思うのです。
仏教の「礼拝」という言葉の、本来的な意味は「屈服」という意味なんですが、
人間は、自然界に「屈服」することを「腹に据えて」生きなければ、天災地災にさえ怯えなければなりません。
わたしは、人災においても、結局のところ「災害」と同じだと思っています。
わたしは幼少期に「火事」を経験していますが、「だれのせいか?」なんて考えて「怨んで見ても」なにも帰ってこないことを親から学びました。
最近でも大事にしていた骨董品を、母が「ゴミ」に出してしまいました。
けれど、こういったことも「自然災害」だと思えば、済んだことに苦るしめられることもありません。
人間だってそもそも自然界に「なにも持たずに生まれでたのです」から、持つことよりも捨てることこそが「楽になれること」が本来だということを忘れているのではないかと思います。
「菩薩像」はいろいろなものを持っていますが、「仏像」はなにも持たないのが基本です。
仏はなにも持たないのです。
現代社会は「持つこと」を進めますが、人間の本来は真逆のようです。
そういう摂理から、自然界に於いても人間界においても、すべてにおいて「屈服すること」が「捨てること」であり楽になるポイントだと思います。
仏への礼拝は「すべてに屈します」ということです。インドにおける礼拝の本意です。
みなさんもこのように思ってみてください。
けっこうゆとりのある気持ちになっていけます。
親鸞聖人も最後には「なにも持たずに往生」されたのですから。。