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2020-11-13 01:39:00

そもそも誰のこと?

「逃ぐるものをおわえとる」→「阿弥陀如来から逃げるものでも必ず摂取する」ということを親鸞さんが書いています。

 

とはいえ、逃げる前に「出会ってない、眼中にない、外国だからほぼ無縁、概念が違うから意味不明なひと」などは、「逃げてもいない」のです。

 

そういう観点で言えば、この部分は広範に適用される内容ではなく、「マジで逃げているひと」へ適用される内容と言えます。

そこで「念仏衆生、摂取不捨」ということになるのです。

「念仏に遇うこと」が増上縁だということです。

しかしここで「だから遇えて良かった」というと「自我」になります。

遇ったものは「無縁なひとを利他ること」が重要なポイントだということになるのでしょう。

 

わたしはただ、自然にそういう縁にあるという事実以外のなにものでもありません。

 

念仏に遇っている、僧侶やその周辺の方々がここで「自我滅」しなければ意味がありません。

さらにこの文言を知っている、説いているものが「真実かどうか」ということだといえるでしょう。。