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2020-11-17 03:57:00

真宗がなぜ仏教なのか。。

「仏教はこんなにいいよ」というのか、「真宗はこんなにいいよ」といいたいのか。。

 

最近の真宗僧侶は「論点が不明確」に陥っていることを自覚していないように思う。

 

そういう意味では「阿弥陀如来や浄土」の教説が邪魔になっている気がする。

 

また「仏教における救い」の定義があいまいなので、、

 

坐禅をしたら「精神が安定する」とか、

お題目を唱えれば「一念三千の成仏体験ができて、宇宙的な利益がある」とか、

念仏して「浄土に往生する身になる、その如来の慈悲心がありがたい」とか、、

 

日本仏教なかでも真宗はどこへ向けようとしているのか。。

 

単純に「お釈迦さん」は「苦悩を除く」「抜苦与楽」と言っている。

 

そのために「無明を破る」という「無癡」をテーマにしているのだから「現実的に智慧をうまなければ意味はない」のではないだろうか。。

 

そういう意味で真宗においては「如来はいます」「その如来は一切衆生を救います」「救いは浄土に往生して成仏することです」といった「他力のパターン」に引き込もうとするから、現代人にとって意味不明な教えでしかなくなっているのだろう。

 

もともと「真宗が大教団だったから」発言権があったけれど、もし教団が小さければ、もはや消えているかもしれない。

 

大教団にしたと言われる「蓮如」や、その後を支えてきた「顕如」などのチカラがあったから、いまも仏教として大教団の発言権を持っているように錯覚をしているのだろう。

 

しかし真宗僧侶の発言権や明治の「廃仏毀釈」をストップさせたのは真宗僧侶ではなく、一部の権力者がいたからである。

 

当時総代だった「本願寺麻生太郎の曾祖父さん」は「ユダヤ系」と知られている。

だから隠れキリシタンを守った本願寺の活動に積極的だったと言われる。

 

つまり明治の廃仏毀釈から宗派を救ったのは「島地氏」という僧侶の背景にあった僧侶ではなくユダヤ系のチカラといえるだろう。

 

注)隠れキリシタンと島津の十字が表す「鹿児島の隠れキリシタンが隠れ念仏になった」これは長野の隠れ念仏は隠れキリシタンだったことも関係する。

つまり真宗を守ったのは「歴史の流れ」だともいえるだろう。

 

信長から毛利氏が真宗を守ったのは、毛利はユダヤのDNAをもっていたからである。

そういう意味で「ユダヤDNAの山口県」から伊藤博文が出たように、薩長連合も真宗と縁が深かったこともあるだろう。

 

いずれも権力の背景は「西洋」である。

だから議会政治が日本で機能するかというテストケースにも利用されたのである。

 

つまり、「江戸教学や蓮如の御文章」ぐらいしか「教義理解ができなかった時代が長く」その教義理解はほぼ構造的に「キリスト教」の日本語訳のような教えであったから、、

キリシタンが真宗に集中した。

 

つまり「国家権力と真宗は常に切り離せない関係にあった」ことが、、

 

現在でも日本の仏教会では「真宗の門主が会長になったり」と数のチカラで、日本人にとっては「日本仏教といえば真宗」という前提が出来てしまって、いまもその錯覚のなかに「僧侶がいる」ことをあえて自覚して、、

 

「非僧非俗」という親鸞の立脚点から、「阿弥陀如来という善巧方便」は必要なのか、、

 

本来の「अमिताभ、Amitābha」や「अमितायुस् Amitāyus」という生命の智慧という、、

 

方便が示す「生命の智慧」をダイレクトに理解するかということになるかもしれない。

 

これは親鸞の「教行証文類」の真実側面から、教義の再構築をするということである。

教行証文類は蓮如や江戸宗学のレンズを通してはならない。

親鸞が説いている「月を指す指」ばかりを見て「現実的な救いや実践が欠けていること」に気づくだろう。

 

そうすれば「智慧の教え」は「ありがたい」という「動物脳や扁桃体」を喜ばせていれば良いのか、前頭葉による「知性による救いの再構築」をするのかということさえも見えてくるだろう。

 

また、現代のスピリチュアルすべてが「ニセ」ではないこともわかるだろう。

 

こういったことで「真宗が仏教」という前提が必要なのかということは、もはや問題になるだろうか。。

 

釈迦が「これは仏教というセクトなのだ」と語っただろうか。

 

そういうポイントから教義理解の再構築を試みたのが「わたしの教行証文類講義(ホムペ)」であるけれど、、

 

これは啓蒙的観点からの思考の試みである。

 

ご参考になれば幸いである‼️