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2020-11-30 03:43:00

わたしのいのちは宇宙そのもの❣️

人間存在が宇宙的な必要的自然な存在であるとしても、

宇宙のなかの無意味な偶然の存在だとしても、

人間の周囲にある「空間」にも「原子や量子」が目一杯詰まっている。

 

なにも見えない空間のように思っても、「空気、電磁波、細菌など」の存在があることはわかるだろう。

 

しかしそれ以外にも「原子、量子」はそこにある。

 

わたしたちの脳からも、心臓からも、全身からも「電磁波」が出ている。

その電磁波が「脳や心臓や身体の状態」によって、特殊な周波数の電磁波を出していて、それが原子や量子によって、宇宙空間に届いているなら、わたしと宇宙空間は一体である。

 

宇宙空間も星と星の間の空間にも「ダークマター」というなんらかの存在が宇宙空間を埋め尽くしているといわれる。

もちろん多くの電磁波もある。

 

もし、わたしの脳や心臓や身体から出ている電磁波が、そのダークマターのある領域の周波数に相応しているとするなら、わたしの意識などは、そのダークマターに伝導していて、そこにわたしの領域があるとするなら、そのエリアや周波数領域は、わたしにとっての「記憶や人格のハードディスク」といえるかも知れない。

 

このように思うのは、「臨死体験」や「事故などにあって脳細胞が破壊されているのに記憶や人格が元に戻った人」などの特殊な体験をしている人から聞いた話の共通点からである。

 

それは現代的にいうと「記憶がクラウドから降りてくる感覚があった」といった内容である。

これらのひとの話を演繹的推論をしてみると、「脳はそれを処理するが、あくまでも記憶などは脳にはない」という不思議な論が成り立っていくからである。

 

わたしなどもこういう文章が「降りてくる感覚」のなかで書いている。

アーティストでも同じであろう。

わたしが「講演をしているときもわたしではない」という感覚があり、話がどんどん出てくるのである。

 

わたしが「右か左か」というときにも、自然にどちらかに向かせられている感があり、これを親鸞さんがいう「自然法爾」かと思うことがよくある。

 

つまり「世俗に埋没しなければ」自然か宇宙が決めてくれる、最終決裁権は自然な宇宙的なベクトルにあるという感覚である。

 

それが「God & Buddha」ということでも同じであろう。

 

つまり資本主義において「お金儲け」などの俗世に引きづられていては感じられないであろう、いのちの実相といえる。

 

諸法(あらゆる存在)の実相も同じかもしれない。

 

すべては宇宙空間のダークマターに存在の根源を持つとするならば、それをわかりやすくいえば「天国や浄土」ということになり、死後に行くところという感覚で表現されてきたのかも知れない。

 

だからこそ「いのちは死んだら終わり」という浅い話ではなく、いのちは宇宙とともに永遠に存在し続けるということになる。

 

それを、わかりやすくいえば「無量寿」ということになり、そのいのちがクラウド以上にダークマターにある特定の周波数によって生きることで輝いていくということであり「無量光、不可思議光、智慧光」に照らされて輝くという真実であると言えるかもしれないのである。

 

だからこそ、人間には、それが、たとえ障がい者さんであったとしても「個性」があり、それぞれがなんらかの他のひとにはないものを持っている。

ただ「無心になってそこを追求するか、誰かが見出して行くか」ということであって、それがわからない見いだせないのは「社会に埋没している」かどうかの違いでしかない。

 

とすると、あなたもわたしも「宇宙のなかでなんらかの意味や理由をもつ存在」であり、世俗はそこをおとしめていく。。

 

このことは、最近世界が大きく変化しつつあるなかで、自己やいろんな事象をもって生まれてきた論であるから、これも「クラウド」というか、ダークマターから降りてきた論であるといえるだろう!