インフォメーション(日々更新中)
2020-12-03 09:47:00
生死‼️
仏教における「生死(しょうじ)の問題」とは、直接的には「死の解決」ではない。
あらゆることを「二極化に分断する迷いのこと」である。
「生と死」「富と貧」「健康と病気」「成功と失敗」「勝ちと負け」という虚妄分別が「迷いを生み」苦を生むのだという無明のことをいう。
一如の悟りには「こういう分断がない」ことに目覚めて、いかなる状態にあっても「そこには功徳がある」と観察していくことである。
「死んでいける世界がある」という死への問題ではなく、日常的に「良し悪し」を言っている無明を明らかにすることである。
一如を根源にした悟りへの日常的な行である。
真実の智慧は「良し悪し」を言わない無分別智であるということなのです。
如来の家に帰るとは、一如に帰って、利他教化することである。
如来を家に例えるのは、「五果門」がそうなっているうえ、十住毘婆沙論にもある悟りのたとえであり、当時の人にわかりやすく記述されたもので、、
「如来さんの家に帰るんや」という情緒的なものではない。
論理の情動化である。
少し気になったので書いておきます。