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2020-12-21 20:51:00

儀礼‼️

 

無戒名字の比丘(ビク)なれど。。と「名ばかりの比丘(無戒は本来比丘といえない)」[非僧非俗](出家の戒律を生きる僧でも、世俗の価値観を生きるものでもない、ただ自然法爾の法に自己のものではない「あずかったいのち」を生かすことを親鸞さんは教えておられます。

 

預かったいのちを「法蔵菩薩」と生きて、滅して「阿弥陀如来」という命になるって思えてきました。

 

わたしのいのちが、わたしのものではなく「無量寿」であることを、अमितायुस् Amitāyusとअमिताभ、Amitābhaが教えて居る。

 

この二側面を阿弥陀如来のひとつにまとめてしまったので、わたしと如来という対立概念になってしまったのです。

 

「無量寿経」であっても「無量光経」ではないことが、いのちについて説いていると言えるし、現代のように「わたしがいのちを預かって悟りへ誘導する光明」なんていう表現でわからないひとの時代の経典であり、それを「論書」で論じられていても意味不明な人が「いま」でもほとんどなので、

「この本質を伝えていくことの難しさ」に取り組むことは、布教者の義務かと思います。

 

ただ〇〇さんが書かれているように、「通過儀礼」をすることにおける「自覚」という重要なことを失った日本人が、「入学、卒業、入社、退職」ぐらいのいのちしか生きていないことは、いのちを陰りの中に埋没させること、勘違いの中に苦しむこと(東大入ったから偉いというような勘違いと現実は違うといったこと)

資本主義にいのちを置くと、キレイなところしか見ない(人間の死体がどうなるか→倶舎論にも同じ行があります)ことによって、いろんなことの本質を見失なうこと、思い通りにならないことなどの苦が過剰に生まれます。

自然法爾に身を置けば、このいのち(わたし)がなにをしようとしているかということがわかって、苦を生きなくても、法に生きることができるようになるものです。

 

いのち(命根)そのものは、अमितायुस् Amitāyus(無量寿→永遠という意味だけでなく、いのちは宇宙レベルの広大さの存在としてあり、衆生に与えられているいのちがそうであるという意)

 

そのいのちに気づかせる、अमिताभ、Amitābha(不可思議→仏智の光明)によって、非僧非俗の輝きを引き出される(無量寿のいのちを自然法爾の願いに生きる→それが法蔵菩薩道)

 

この流れが「正信偈」の冒頭の寿命、光明の次第から法蔵菩薩への展開だと思います。

 

授戒にせよ、倶舎論で「得」という無表業が植えられると論じています。

つまり「得」にならないのは、儀礼を軽視する、日本人がそもそも儀礼の必要性をわかっていないことにもよると思います。

 

以下専門的内容です!

 

「儀礼を生きる」

 

たとえば「本来的な成人式」を通過して、「大人になった」という「得」を無表業(阿頼耶識)に種子として入れることができるような「成人式」ではなくなったので、「子どものような大人」になっています。

(倶舎論に種子の概念はないけど、唯識につなげているのであえて使います)

そういう意味で「儀礼を生きる」ことの大切さがわからないでしょう。。