インフォメーション(日々更新中)
2021-01-16 19:43:00
仏教者においてすべきこと‼️(前の内容への加点)
「還浄」という表現をされることがありますが、これは本来「わたし」が「浄」から現れて「浄にかえる」という意味になります。
ここで「わたしという生命」と「わたしの心」を分離して、
「わたしは原子や素粒子から生まれている」という側面と、
「わたしはDNAによって思考や行動をしている」という側面のズレを考察する必要があるでしょう。
でなければ、親鸞さんのうえで、阿闍世は権化であるととらえる場合に、これは「事実ではない」という前提がなければ、「阿闍世の悪性」もすべて本覚である、真如からすべてが現れているという誤解が生まれて、結果「いまでも本願ぼこり」を生んでいます。
親◯会などはそういったことを悪徳企業に向けて説くことで財をなしてきています。
本覚思想がいう「基体から個体」(原子や素粒子からわたしという個体)が生まれているという側面が「差別やアクも本来真如」だとすることになります。
法話で「他人の悪性」を「如来さんがわたしの本性を見せてくれている」といったことを語るひとがいます。
「親鸞一人がため」を誤解して、「わたし個人の問題」だとして、以前の「信心の社会性」を問うことを、バカらしいというスタンスになります。(空華)
ここにズレを生むことと、そもそもの「縁起説」が十二縁起にあることを忘れていて、「これある故に彼あり」という「十二縁起説とセット」になった文言のこの部分だけを取り出して「縁起説」だとすると、「不善によって善あり」ということをいうことになるという、そもそもの十二縁起説を語らない縁起説が問題になります。
この点は「始覚思想」となります。
つまり「いのちは原子や素粒子から現れた」けれど「DNAにある情報がわたしをどう迷わせているか」ということを考察することによって、「無明の闇を破ること」が必要であるという側面が重要だと言えるでしょう。
DNA情報を、わたしのいのちにおいて、周辺のいのちを含めて「良き情報に書き換えること」(他利利他)が、「わたしがわたしのいのちにすべきこと」だといえるでしょう。
仏教はこの両側面を説いていると言えるでしょう❣️