インフォメーション(日々更新中)
2021-02-04 02:51:00
改めて日本航空123便‼️
(引用)
長いので、ラストにポイントがあるので、そこはお読みください。
そこには「させてしまった」といちおうあるので、
返って消されていないと思われる内容です‼️
ーーーーーー
落合さんの証言から。。
JALジャンボ機墜落事故
私は、あの日、静岡県・富士市に勤務していて、
お盆休みを利用して子供たちと一緒に、
ディズニーランドに遊びに行っていた。
夏は、南風が吹いているので、
航空機は浦安上空を通って羽田に着陸するので、
着陸して行く航空機を、
ディズニーランドからも良く見えていた。
事故機の事故前の飛行は、
福岡から羽田に向っていた366便で運航して、
事故機を見ていたかもしれない。
今年でもう30年も経過したのかという印象であるが、
改めて520人のご冥福をお祈りしたいと思います。
壮絶な事故の中、4人の方が生還されたが、
その内、2人の証言をもう一度紹介したいと思います。
ちょっと長いですが全文を紹介します。
【落合由美さんの証言】
離陸してすぐ、
私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。
女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、
という印象はありました。私の席の周囲にも、
若い女性の姿が目立った。
禁煙のサインはすぐに消えたのですが、
着席のサインが消えていたかどうか、
はっきりしません。
そろそろ水平飛行に移るかなというとき、
「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。
テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。
「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。
急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。
前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。
音は、私のちょっと後ろの天井の辺りからしたように感じましたが、
そこだけでなく全体的に広がったように思います。
私は思わず天井を見上げました。
しかし、振動はまったく感じませんでした。
機体も揺れなかった。
お客様からは、「うわっ」という声がした。
女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。
騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。
耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。
ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。
しかし、それもすぐに直りました。
「パーン」という音とほとんど同時に、
酸素マスクが自動的に落ちてきた。
ジャンボの場合、
席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、
私の座っていた「56」の2席には3つありました。
それが機内に一斉に落ちてきた時は、
マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。
引っ張ると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。
酸素が出てこないのもあったけれど、
足りないということはありません。
直ちに録音してあるアナウンスで
「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」
と日本語と英語で流れました。
マスクのつけ方は、となり同士教えあって、
案外スムーズに着けていました。
ベルトについての指示はなかった。
お客様はまだベルトをしたままでした。
煙草をすぐ消すように、
という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、
禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。
あとで気がつくと、
離陸してまもなく消えていたはずのサインが点いていましたから。
しかし、緊急降下中といっても、
体に感じるような急激な降下はありませんでした。
急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、
もちろん知っていました。
急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、
機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、
そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、
しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。
酸素マスクが落ちてくる光景は、
訓練では見ていますが,実際に経験するのは、
もちろんこれが初めてでした。
やはり「パーン」という音と同時に、
白い霧のようなものが出ました。
かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。
私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、
もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが
濃かったように見えました。
ふと見ると、前方スクリーンの左側通路に
スチュワーデスが立っていたのですが、
その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。
その霧のようなものは、数秒で消えました。
酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。
すっと消えた、という感じだったのです。
匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、
靄(モヤ)のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だということも、
もちろん訓練の時に教わっていたことでした。
はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って
酸素マスクをしていましたが、
しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。
そのときは、エキストラ・マスクを引っ張って、口にあてていました。
マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。
3列くらいはひとつのマスクをつけたまま、
まわっていたようでした。
このときも、荷物などが飛ぶということもなく、
機体の揺れはほとんど感じませんでした。
しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、
きょろきょろあたりを見まわしていました。
後になって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、
客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、
とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。
ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。
きょろきょろしていたとき、
私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、
はずれていることに気がつきました。
トイレのドアはしまっていましたが、
その上の壁がすっぽりはずれて、
屋根裏部屋のような感じで見えたのです。
壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、
継目が外れたと言う感じでした。
壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。
そして、壁のはずれた向こう側に、
運動会で使うテントの生地のようなものが、
ひらひらしているのが見えました。
オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。
ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、
一枚の布を垂らしたような感じでした。
これもあとで整備の人に聞いたのですが、
裏のほうには、そういう布があるのだそうです。
それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、
ひらひらしていたのです。
そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、
ということはありませんでした。
もうひとつ、私の頭上の少し前の天井に、
整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、
蓋がついているのですが、
その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。
壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。
内部は暗く、何も見えませんでした。
ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。
この時にはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、
しゃべったりはしませんでした。
酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、
とても会話どころではなかったのかもしれません。
でも、とても不安そうにして、
きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。
赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。
いつ点灯したのか気付きませんでしたが、
「EXIT」と「非常口」を示す、
エマージェンシー・ライトはついていました。
座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。
ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。
時間的にはそろそろ暗くなるときですから、
つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。
こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、
ほとんどありませんでした。
ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、
酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、
たぶん10分くらいしてからのように思います。
このころになって、酸素マスクをはずしてみても、
苦しさは感じませんでした。
ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。
ダッチロールという言葉は、知りませんでした。
飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。
振動などは全然ありません。
とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。
急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。
だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。
私の席に近い左の窓から見えたのは、
まっ白な雲だけでした。
かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
お客様は窓の外を眺めたり、
中にはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。
機内の様子は、
あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、
この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、
という気持ちがあったように思います。
ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、
みんな不安な表情ではあったのです。
そのうちに酸素が出なくなりました。
いつだったか、私がフライトをしていたとき、
お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、
とたずねられたことがありました。
全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。
そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。
でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。
ちょうどそのころになって、
私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、
まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、
つけてください」という指示を出しました。
その指示がどこからきたのか、わかりません。
ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて
各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、
乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる
「オール・コール」でくるのですが、
今度の場合は、それはありませんでした。
ライフ・ベストをつけるように、という指示は、
機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。
まず、スチュワーデスが着用して、このように着けるんです、
と教えながら、座席をまわることになっています。
今度も、そうしていました。
前のほうでも、一斉にベストの着用がはじまっている様子が見えました。
スチュワーデスは口頭で、
座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て救命胴衣をつけてください、
と言いながらまわりはじめました。
私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。
私は羽田に戻れればいいな、と感じていました。
しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、
ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。
しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることが分からないお客様や、
分かっても、引っ張って取りだすことが
分からないお客様も少なくありませんでした。
私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、
取り乱している若い女性達がいました。
そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。
お客様はこのときはじめて、
座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。
私が席を立ったとき、
となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、
声をかけました。
私は「はい、そうです」と答えて、
Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。
とても冷静な方でした。
ご自分のつけ終わると、座席から手を伸ばして、
前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。
私は通路に出て、
L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。
彼女が私の席より後ろの方をまわり、
私は、前のほう2列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。
しかし、このころになると、機体の揺れは、
じっと立っていられないほどでした。
激しい揺れ、というのではなくて、
前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、
座席につかまって二、三歩、歩いて、
お客様の座席の下のベストを引っ張って、ちょっと座って、
また二、三歩という感じでした。
まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。
救命胴衣は飛行機が着水して、
外に脱出してからふくらませることになっています。
機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、
膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。
しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、
4、5人いました。男の人ばかりです。
こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。
泣きそうになっているのは男性でした。
これはとても印象深かったことです。
ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と
弱気そうな顔でおっしゃるんですが、
ふくらませてしまったのは仕方ないですから、
そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。
ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。
他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、
「ふくらませないで!」と叫びました。
機内にはまだいくらかの空席がありました。
ひとりだけポツンと座っている人は、
不安になったんだと思います。
救命胴衣をつけているあいだに、
席を詰めて、固まるようになりました。
私は何も聞かれませんでしたが、
制服を着ていたスチュワーデスは
お客様からいろいろ質問されていました。
「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。
聞いていたのは男の方ばかりでした。
家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、
そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。
スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、
できるだけ冷静に行動していました。
いろいろ聞かれても、
「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。
絶対大丈夫です。」と答えていました。
そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。
ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。
赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、
このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、
大人用のベストをつけたと思います。
子供の声が聞こえました。
「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、
短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、
悲鳴をあげたりすることはありませんでした。
声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。
全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。
つけ終わった方は、となりの方を手伝ったりしていました。
救命胴衣をつけているあいだに、
スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。
正確には覚えていませんが、
「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。
それと、「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。
私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、
様子を聞いてきたのではないかと思います。
落着いた声でした。
揺れはいっそう大きくなりました。
もう立っていることはできないほどです。
救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんど一斉に安全姿勢をとりました。
そのときには、眼鏡をはずしたり、
先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、
上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、
と指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。
私は「56C」にもどりました。
L5のスチュワーデスは通路をはさんで、
ふたつうしろの空席に座りました。
安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。
うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。
「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。
全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。
こういうときは、「・・・してください」とは言いません。
お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、
腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、
脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける
安全姿勢のとり方があるのですが、
このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。
安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。
「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、
うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください」と。
Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。
Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。
そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。
とても近くでした。このルートを飛ぶときに、
もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。
左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、
私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。
頭を下げながら機内をちらっと見ると、
たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、
ピーンと下にひっぱられているのが見えました。
マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。
安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
しかし、上下の振動はありませんでした。
前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが
女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、
それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。
まったくの急降下です。まっさかさまです。
髪の毛が逆立つくらいの感じです。
頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、
そうなっていると感じるほどでした。
怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。
思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。
私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。
振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。
いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けるるしかけるしかない。
汗をかいたかどうかも思いだせません。
座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。
体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。
「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。
でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。
羽田にもどります、というアナウンスがないかな、
とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、
操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、
もう大丈夫だって。でも、なかった。
衝撃がありました。
衝撃は一度感じただけです。
いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。
回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。
衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、
私はもう怖くて、顔をあげた。
その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。
固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。
音は、まったく記憶にありません。
音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。
衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。
目の前は、もやーっとしているだけです。
墜落だ、と思いました。
大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。
すごく臭かった。機械の匂いです。
油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。
体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。
左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。
足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、
もうぐったりしているという感じです。
目には砂がいっぱい入っていて、
とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。
失明するだろうな、と思っていました。
これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、
コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。
すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。
灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、
周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。
呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。
死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。
ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。
死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。
苦しみたくない、という一心でした。
しかし、痛くて、強くは噛めないのです。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。
ひとりではなく、何人もの息遣いです。
そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。
どのくらい時間がたったのか、わかりません。
すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。
私は座ったまま、
いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。
左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、
寄りかかるように触っているのを感じました。
すでに息はしていません。冷たくなっていました。
シート・ベルトはしたままだったので、
それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、
ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。
頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、
そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、
何か固いものがあったので、どかそうと思って、押してみたのですが、
動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、
やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。
パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。
冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。
どこからか、若い女の人の声で、
「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。
あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。
まだ何人もの息遣いです。
それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。
意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。
体はむしろ熱く感じていました。
私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、
冷たい空気にあたりました。
突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、
男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、
それははっきり聞こえました。
しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、
判断はつきません。
私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、
どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。
もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、
血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。
やがて真暗のなかに、ヘリコプターの音が聞こえました。
あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。
それもすぐ近くです。
これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。
けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。
帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、
声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。
体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、
真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。
私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。
父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、
そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。
母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、
スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。
そんなこと、あなたに勤まるの?」と、
いくらかあきれた口調で言っていたものです。
それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。
時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、
もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。
涙は出ません。全然流しませんでした。
墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。
そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。
気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。
まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。
でも、声を出してみたんです。
「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。
「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。
あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、
このときにはその気配を感じませんでした。
たぶん、それから私は眠ったのだと思います。
風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、
バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、
ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。
何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。
朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。
だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。
私は右手を伸ばして、振りました。
「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。
そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。
朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。
どうやって埋まったなかから救出されたのか、
どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。
体の痛みも、空腹も感じませんでした。
ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。
お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、
私は記憶していないのです。
応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、
あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、
あげられなかったのよ」といわれましたが、
水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。
目を開けたら、病院でした。
お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、
奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。
そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、
わかっていながら、そんなふうに答えていました。
頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。
「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。
どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。
それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、
とだんだん考えるようになりました。
家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。
飛行機がおちたことはわかっているのですが、
どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。
現実感がなかなかとりもどせないのです。
たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。
お医者さんが「4人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくさいました。
それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。
大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。
天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、
一緒に千歳からもどってきて、
同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。
私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。
百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。
麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、
「痛い、痛い」と言っていたようです。
救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。
私は「4人しか・・・・・・」と口にしたのですが、
夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。
(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)
落合由美さんは当時JALのアシスタントパーサー。
当日は非番で123便に乗り合せていました。
【川上慶子さんの証言】
気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。
子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。
手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。
自分の体中を触ってみても、みんな付いており、生きていると思った。
みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。
母は答えなかった。
『手や足を動かしてみ』と言われて足をバタバタさせると、
靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。
足首がヌルヌルしていて血だなと思った。
父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。
『助けて』と父に言うと、『お父ちゃんも挟まれて身動きできない。
助けてやりたいけど、どうしようもないなあ』と言われた。
父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。
『お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い』と言っているうち、
父はそのまま動かなくなった。
咲子に聞くと『お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。
お父ちゃんも死んでいる』と答えた。
左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。
その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は『苦しい、苦しい』と言った。
『足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ』と言うと
妹の足の音がした。妹はそれでも『苦しい、苦しい。
みんな助けに来てくれるのかなあ』と言うので、
『大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、
島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう』と答えた。
突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。
一人になってしまったと思い。
その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。
ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。
目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。
生きているんやなと思った。
何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。
父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。
そのとき、父のだと思って触った手を、
上の方にたどると自分の右手だと分かった。
顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、
二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。
そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。
『中学になってから慶子は根気がなくなった』と、
日ごろから言われていた言葉を思い出し頑張った。
人の気配がして『生きている人は手や足を動かして』と声がした。
足をバタバタさせると人が近寄って来た。
ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、
『男の子だ!』と言われた」。
別の証言。
「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、
御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。
あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。
(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。
そう言うたら御父さんは動かん様になった。
段々動かなく、物を言わない様になった。
咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。
『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな』と言って上げたけど、
げえげえと言い出したと思ったら静かになって、
咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。
廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。
(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、
真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。
『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。
『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる』と話したけど、
それきりで来ん様になった。
その内、皆話さなくなった・・・」
(週刊朝日(7月15日号)の
「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」
(「幸せを掴んだ川上慶子さん」より )。
航空事故調査委員会が「事故調査報告書」を出し、
“しりもち事故の修理ミスによる圧力隔壁の損傷”と
事故原因の究明に幕を下ろしている。
しかし、2人の証言のように、ヘリコプターの音がしたのに、
救助もせず、帰ってしまったというのは合点がいかない。
墜落地点もなかなか分からず、救助活動が遅れたとしていたが、
ヘリコプターの音がしたのに、どうして救助もせず、
帰ってしまったのだろうか?
ところが、
現在、日本、韓国、ハワイ、グアムに駐留する米軍基地内で、
米軍の機関誌として読まれている
「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の、
85年8月27日号には以下の内容の記事が掲載されている。
日航ジャンボ機墜落事故から、
わずかに2週間後の発行日付である。
「日航ジャンボ機墜落事故当時、
横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、
マイケル・アントヌッチ中尉は以下のように証言する。
「事故当日、空中戦の演習を行っていた米軍練習用戦闘機から
事故が起こったとの緊急無線が入り、
一番近くを飛行していた私のU130輸送機が
事故現場へ救出のため急行した。」
「いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、
日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行っていた所、
安全装置が解除されている事に気付かず、
実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、
というのが無線の第一報の内容だった。」
この空軍中尉マイケル・アントヌッチは、
日本政府から奇妙な事に
『緊急の救助のために現場に行かなかった事、
第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。
この現役アメリカ空軍中尉の証言は、
米軍機が「動く格好のターゲットである日本の民間旅客機」、
つまり日本人をターゲットに日常的に
「撃墜演習」を行っている事実を示している。
相模湾上空で、
圧力隔壁が破壊されたのが事故原因とされているが、
落合さんの証言で、
気圧が急減圧せず気温も下がらなかったのである。
そこで、圧力隔壁が破壊されず、
ジャンボ機の尾翼を、ミサイルで命中させてしまったと考えると
辻褄が合うのである。
ーーーーー
この時「国(中曽根総理)」はアメリカにプラザ合意につき、
国会で議決を迫られていました。。
あの「川上慶子さん」は、アメリカ人と結婚しています。。
(これらは意味深です)