インフォメーション(日々更新中)

2021-05-31 23:30:00

倶舎論からの試論‼️

【倶舎論からの試論】

 

五位七十五法や六因四縁五果の因果論から言って、

 

阿弥陀仏が無為法身という無為法である以上、因にはなりません。

 

また信心は「疑蓋無雑」(疑いフタない)である以上有為法のわたしの心の在り方になります。

 

教行証文類にあるように、無為法から「信力」が起こるとするなら「信力増上縁」なのです。

 

「如来から信心をいただくなんていうこと」は無為法が因になるといってるようなもので、成立しません。

 

あくまでも「わたしの疑いの蓋がない」という状態は、「仏縁」による有為法のわたしの行為になるわけです。

 

そしてこの場合には、「疑いのフタ」をとったわたしに、悟りへの増上力が入って来て「着床」してこそ、わたしの「仏道がスタート」します。

 

この辺の仏教理解が真宗学に見られないのは、「教行証文類」研究の歴史が浅いからとも言えます。

 

【倶舎論からの解釈(試論)】

 

時間について「大経」にも「過未現」とあり、「去来現」とあって、「いま」の刹那にわたしが行ったことは刹那に過去法になる。

 

そして五位七十五法のいずれかの法が強く「未来法」として落捨してくるけれど、どの法を受け取るかによって「現在法」がきまる。

 

そのなかで「無為法」を受け入れれば、無為法に生きる過去法が累積して、やがて「仏になる」のである。

 

ここで未来法から「去来現」の無為法(真如)から「来」した「如来」を受け入れる信力増上によって、「無量寿仏」への「疑蓋無雑」になって、現在法が真如無為法によって観察できるようになるから、「いま現生」から変化が起こってくるのである。

 

それが「無碍光」の「智慧による慈悲」であるといえる。