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2021-08-12 14:07:00
仏理学‼️
大乗仏教は、在家を含めて和合を求めています。
三宝のサンガを荘厳したのが、浄土なのです。
同入和合海、一味、をもって浄土往生とするなら、
極楽世界は、宮商和する(ハモらない音が和する)世界、
怨親平等の世界、ともいわれます。
このファンタジックな表現の根拠は、
すべては根源的に絶対一の一如。
これは、真如縁起をもととし、華厳の法界縁起、
などの大乗仏教の根本真理を元としています。
こういえばファンタジーではなく、理法となりますね。
いずれにせよ、私が本当に無私になり、不障能作因の私、
つまり仰信する。
教えに対して計らうことなく、疑いという心所法を
働かせず、教えをそのままいただく状態になることが
重要ポイントになります。
だから、信心が大事といいますが、信心というのは、
教えに対して何もはからわないことですから、
実質的には教えに対して思考停止することといえます。
しかしその思考停止が、私を自然に和合世界に導くの
ですから、良い意味での思考停止と言えます。
そのために、聴聞せよと言われるけれど、
これは、布教使のはなしをうのみにせよっていうことではない。
あやしげなきれいごとしか並べない法話が阿弥陀の教えと同じ
であるとは必ずしも言えないんです。
聴聞とは、先ずは大経の四十八願により、
和合界はどのような世界か、そこに導く南無阿弥陀仏の
名号の万徳(いわゆる名号のいわれ)を聞き、
自分の愚かさを知る。
つまり機の深信の私となる。
そして、四十八願は私を和合界へ至らせる作用を
もっていると知る。
これが法の深信となるのですが、知るというのは、
実質的には、何もはからわないということですから、
ひるがえって、教えのまま名号に浸かる、即ち
念仏生活をするということ。
それは阿弥陀の教えによって今ある私自身の機と法の深信
を伝えて行くのです。
煩悩だらけと否定されている私が、私を否定している
名号を勧めていくという、極めておもしろい状態が
現象として生まれるのです。
しかしそこが念仏生活は名号ないし阿弥陀仏を讃嘆する
生活として成り立つのです。
お勤め、声明もみな讃嘆している状態です。
究極、そこにはもはや自他の分別はなく、真智無分別智の
状態があるのみになります。
名号が私のいのちを使って、利他行をしている状態があるのみ。
自信教人信の状態があるのみという生活になるのです。
だから、よく何が浄土に往生するのかと問われますが、
私が名号に絡めとられる(空華的表現であるが)
いいかえれば、私がなくなり名号が私を無為法へと導き、
私が自他の分別を超える中で、有為法の私は、もはや
無為法の名号の使いでしかなく、
有漏の肉体が滅するとき、無為法の名号が残るのみで、
名号が浄土と穢土(有為法の煩悩だらけの世界)を
往復するだけという、絶対一如の無為法の世界に至る
わけです。(チョット専門用語が続きますが)
これをもって、浄土往生とファンタジックには
表現されるのです。
つまり親鸞聖人は、仏理学として証文類と真仏土文類には、
こういった阿弥陀の教えの理法を証明して、
教、行、信文類には、凡夫凡人のいわゆる凡情に向けた、
当時としてはわかりやすい阿弥陀の教えを解釈されて
いますから、現代人のように、簡単には計らわない、
簡単には思考停止してくれない凡情には、仏理学から
入る方が、先ずは「なるほど」ってなりやすいのです。
ただその「なるほど」は、理解したというだけで、
和合界に至るものではないので、現代の物理学や
脳科学などという観点をとりいれるのです。
いわば、あなたも私も原子あるいは量子から成り立っていて、
宇宙的観点から見れば、私もあなたも宇宙の歴史の中の点
ぐらいでしかないということを通して、
親鸞聖人が「父母の孝養のために…」と言われるように
宇宙の歴史から見れば、互いに父母兄弟であるといった
現代人なら受け入れるであろう事実を切り口にして法を
解いていくことで(あえて解くとします。)
真実事実を目のあたりにして、一如、真如を受け入れざる
を得ない法話をするんです。
そこでは、阿弥陀さまというより南無阿弥陀仏の念仏生活が、
和合という支え合う人間関係を作り、その無私の和合という
関係性に救われていくことを、布教使ないしは念仏者が
実体験として話すことで現代人も解学としてではなく、
行学として念仏を讃嘆するようになります。
これが、末学末席の得業布教使歴30年の石泉系仏理学者
からの提案です。
主席社会不適合者でもありますが。。。
マジに念仏生活してると、資本主義社会では、不適合者に
ならなきゃ仕方ないんです。
先日も一万円札を落としましたが、「誰か必要とする人に
拾われて使ってもらえれば。。」っていうと、
そんなこと言うもんじゃないって叱られたり、
マジ「約束はできません、死ぬかもしれないので。。」って
いっても叱られる。
もともと少ない資産を、育ちそうな人材に投資をしていると、
「裏切られるよ」「損するよ」とか言われ、「裏切られても、
損してもいいんです。」っていうと、アホ扱いされる。
なんかいろんな場面で、資本主義社会と和合することの
難しさを、本当に念仏生活している坊さんの仲間は
理解するけど、一般的には社会不適合者になって、
社会に念仏を讃嘆しています。
そうしていると、法の活動なのか、真の理解者が出てきて、
いい意味で深い人間関係が生まれ、そういう人とは腹を
割った関わりができます。
無私の念仏生活こそ、真の人間関係がうまれ、
共に南無阿弥陀仏を中心に語り合えるんです。
まさに仏力に任していると、社会不適合者という評価が
うれしくなります。
私にあなたは社会不適合者だっていってくれた人が、
そういう意味で仰ってくださり、ずっと深い人間関係に
あります。
これは私ではなく、名号が歓喜しているんです。