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2021-10-04 03:47:00
信じると‼️
【キリスト教を信じると、人生にどのような意味が与えられますか?】
人は日常的に、無意識の中で法律や世間の常識や個人の価値観などの尺度を持って考え行動しています。
つまり、それが宗教であろうと法律であろうと道徳であろうと教わった常識であろうと会社のしきたりであろうと何であれ、みんななんらかの尺度や価値観等を持ちながら生きているのです。
ただそれが、ほとんどの場合無意識に行われていると言うことをほとんどの人が自覚をしていないことが、キリスト教などの宗教が特別なことであると、日本人は錯覚をしているのです。
例えば日本人は、ご飯を食べる時「いただきます」と言って人によっては手を合わせる人もいるでしょう。こういった行いは、ほぼ無自覚に教えられてきて、無自覚に実行している行いです。
ご質問のように、キリスト教を信じると人生にどのような意味が与えられるかといった事は、日本国憲法や法律をを守ることによって、人生にどのような意味が与えられるのか、と言う問いと変わらないことになります。
といいつつも日本人は、正月に初詣に行ったり七五三を祝ったりお祭りに参加したり、クリスマスを祝ったり除夜の鐘をつきに行ったりといった宗教的なことを日本人は全く無自覚にかつ、単なるイベントのように思ってやっていたり、ビジネスベースで作られた行事に乗っかってみたりと言うことが、皆さんの人生にどのような意味を与えているのでしょうか。
例えば、ひな祭りのひな飾りは、古来の天皇家の結婚式を表したものであると言われています。ですから3月3日を過ぎてひな飾りをそのままにしておくと結婚が適齢期を超えてしまう。といった迷信に振り回されるような人も意外と多いように思います。
日本と言う国は、長い間「天皇陛下」と言う神様がいて、その神様に日々礼拝をし、誰かが「天皇陛下」と言うだけで、その周囲にいる人全てが敬礼をすると言うようなしきたりがあったことを、昭和の末期から平成、令和と進むにあたって、若い人がそう言った歴史を知らない状態になっています。
しかし、日本において第二次世界大戦の終わりまで、天皇陛下が「本物の神様」(現人神)であると日本国民はど真剣に思っていたのです。第二次世界大戦が終わり、天皇陛下が「人間宣言」をするまではマジマジ神様だったのです。
つまり日本は、ついこないだまで神(宗教)が国をつかさどっていたと言うことになります。また、古くから日本はたくさんの迷信があって、菅原道真を粗末にしたために疫病だのなんだのと言う問題が発生し、その数々の問題を解決するために「天満宮」を作って菅原道真さんの魂を沈めるといったことを普通にやっていたのです。
そういう意味では、日本ほど現在も多くの迷信や俗信に振り回されている国は少ないのではないかと思います。
さすがに最近では、結婚式すらしないカップルが増えているので、大安だの仏滅だのと言ったことを気にする人は少なくなっていると思いますが、特定の業種においては水曜日を休みにするといった業種もあります。それは、そのビジネスの話が水に流されないようにと言うことで水曜日が休みになったと言われています。
葬式においては、友引を避ける傾向にありますが、これは亡くなった人が友達を引っ張って一緒に連れて行かれるの嫌悪して友引を避けているといいます。
また、お葬式の後に塩を持って帰って塩を体にふりかけて家に入らなければ不幸を持ち込むといった迷信も今でも残っています。
また、単純に田舎のお墓が怖いと言う人もいますし、夜のお寺の本堂が怖いと言う人もいます。
挙げればキリがない位、日本人はどうでもいい迷信や俗信や占い等のおよそ根拠がよくわからないことを信じている人は意外と多いものです。
占いにしても「統計学」ですからと言いますが、いつ誰がどこでどのような対象に対してどのような調べ方をしてどういった統計学に基づいてその占いの手法において運勢を知ることができると言えるのか。
こういったことを、日本人は「統計学ですから」と言う一言で納得してしまうと言う、無宗教であるが故に、誰かが言うことや世間の常識を正しいと思い込んでしまっていると言えましょう。
そしてその誰かが他の誰かに入れ替わった時、前の誰かが言ったことをあっさり捨てて、新しい誰かの言うことに従っていくと言う全くもって、「それがあなたの人生」と言うことで良いのでしょうか。
と尋ねたくなるようなことがたくさんあります。
わかりやすく言えば、例えば市長が変わることで、前の市長の全く逆の方針が出されても市役所で働く人は、新しい市長の言うことを進めていかなければならないと言う国民であって、政治も何もおおよそ理由を自ら考えることなく、人の言うままに流されていくと言うのが、高いレベルの哲学的思想的教理教学を持った宗教を失った現代の日本人の姿であると思います。
ここで、質問者様の「キリスト教を信じると」と言う文言について、あえて言うならば、キリスト教を信じると言うことではなく、バイブルにおいて、神の言葉を預かっている預言者の言葉を学びながら、人生をどう生きていくのかと言うことを考えていくと言う方がより的確な表現かと思います。
この時、バイブルの言葉をどのように理解し、どのように自分の人生に指針を与えていくのかと言うことを学ぶためには、カトリックで言う神父さんや、プロテスタントで言う牧師さんと言う人たちに学んでいくということが重要になりますし、またキリスト教の〇〇派と言う次元ではなく、神父さんや牧師さんと相性が合う合わないと言うこともあるので、その辺は自らの相性基準を変えていく必要があることもあろうかと思います。
しかし、キリスト教においては、まずは、カトリックかプロテスタントかと言う二者択一をしていかなければいけないと言う事はあろうかと思います。
とは言え、これもご縁と言うことがいえますから、まずは質問者様が1番通いやすい教会へと足を向けて見られることが、まずすべきことではないかと思います。
ここで私が「すべき事」と書いたのは、いつまでも門外漢の評論家では、その真の姿が分からないからなのです。