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2021-10-17 17:39:00

さめた仏陀‼️

「お釈迦さんは冷たい人だ」と言う人がおられます。

これはあながち間違いだとは言えません。

なぜなら、仏教はまず「悟りの智慧(ちえ)」が重要であり、悟りの智慧と言うのは、「真理の論そのもの」ですから、情に傾きません。

この智慧の論が難しいので、お釈迦様は悟った後そのまま入滅しようとされたほど、当時の人にとっては仏陀の論は難解なのです。

しかし、この悟りの智慧を論として理解できなければ、釈迦牟尼仏陀の悟りを得たと言う結論に至ることができません。

そういうポイントで、仏教の真理の論理性を理解できない方においては、体得が難しいと言わざるをえません。

論理がわかるからこそ、導くための対機説法ができるのです。

そして「苦しむ人を導く方法」についても、覚めた雰囲気の論を提示するぐらいであって、お釈迦さんに「ぬくもり」といったイメージは全くありません。

 

なのに大乗仏教においては「利他」を強調します。

「大きな乗り物でみんなが救われましょう」といった温かいメッセージのような教えが展開されていきます。

 

ここで間違ってはいけません。

初期仏教または根本仏教と言いますが、お釈迦様の教えそのものを小さな乗り物だと考えては大きくずれてしまいます。

 

それ以上に、大乗仏教がほんとうの仏教であるかのような、根本仏教からかなりかけ離れたものが多く説かれています。

これには大きな注意が必要です。

 

「自利利他」の「双行(そうぎょう)」と大乗仏教ではいいますが、これは「他」が悟りへ向かうように自己が行をすることですが、そこには、まだ行じている「自己」が存在します。

なので根本仏教の無我の教えとズレていきます。

 

大乗仏教に、天親と曇鸞というひとがいて、「浄土」について「その仏教性」を論じています。

そこには「他利利他」と記述されていて、自己が抜かれています。

つまり大乗仏教においても、単純に「みんなが救われてよかったね」という曖昧な悟りへの道と言うのはないということを定義しています。

それは「無常無我」の「根本仏教の論」を明確にするものです。

 

あくまでも「浄土」さえも、「無常無我」が前提の場であって、その悟りへ誘導するための方便が、浄土である、といった表現をされているのです。

結果、大乗仏教でも、冷静な悟りへ向かわなければ意味がないと言う事なのです。

 

多くの大乗経典は、そこをキチンと抑えてあるのに、きっちり学ばずに、「大乗仏教はみんなが救われる教えなんだよ」という安易なごまかしに終始するようなことを言っている人や僧侶が結構多いことに驚きを禁じえません。

 

仏教は、利他においてもあくまでも悟りを説かなければ、情に流されてしまいます。

流されそうな情の中で、情に流されないようにするのが、冷静な論が通った智慧なのです。