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2022-02-06 07:02:00
話法は巧みである‼️
「わたしの妻は重病だったけれど、適切な医師に出会って治癒しました」「このように適切な診断をしてくれるのが阿弥陀如来です」
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たとえば「こう言った話し」があるとする。
聞いたひとは、「奥さんは重病だったんだ」という「情」を感じつつ、
「阿弥陀如来」への「情的理解をする」。。
じつは、「この妻の病気」という文言を「あるひとが重病で」というと「同情」を得ることはない。
こういった「巧みな話法」に「洗脳されている」ことに気づくひとは少ない。
そして「妻である必要がない話し」と「妻の病気見立て」と「阿弥陀如来」とは論理的整合性はない。
なぜなら「阿弥陀如来」をこの「情的理解」のみでは、ほんとうの意味で知ることにはならないからである。
「阿弥陀如来」の論理的根源を「布教者は語っていない」からである。
昨今こういう話法を用いて「ファンを増やし、収入を増やし、名を売る」ニセモノが、布教現場に増えていることに、嘆きを覚える。。