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2022-02-16 18:04:00
I love you❣️
量子物理学の父といわれる「シュレディンガー」は「妻との愛を数学で証明しようとした」けれど、それは不可能であった。
しかし、「妻と見つめあったとき」それが一致したと感じた。
という逸話があるらしい!
以前わたしは「慈悲の法則を求めて」という本にも書いたけれど、
「理数と文学は一致する」また「理数という揺らがないように思う定理も扱うひとによって揺らぐ」つまり「理数も揺らぐ」ということでもある。
なぜなら「ひとが揺らぐ」からである。
「ひと」という「変数」は逃れられない。
「システム(構造)」が完璧でも「ヒューマン(人間)」がエラーを起こす可能性を考慮しなければならない。
けれど「システムや定理を考え出した」のもひとである。
《なぜ歴史の中で「ひと」は、理数を考え、文学を考えてきたのか?》
その自然現象が意味することはなんなのであろうか?
これを「仏教」でいえば「智慧と慈悲」という「知性、理性 & 感性、感情」のバランスが説かれている理由でもある。
《愛は勝つ》ということばが以前流行ったが「なんの根拠もない」と思える。
しかし、「知性と感性がちょうどいいバランスの上にある《愛》は勝つ」といえそうである。
また「なにに勝つのか」ということも、2人を基準とした「愛」は、
「何者にも脅かされない(おびやかされない)」ということであろう。
原子核のような状態かもしれない。
「無理に分裂をさせると大爆発を起こす」ほど、普通には引き裂けられない。
ここでいう「愛」は「慈悲」とも同じである。
「博愛も慈愛も何者にも脅かされない」といえるし、「智慧に基づく慈悲も脅かされない」といえる。
「わたし」は妻にそう感じているが、妻以外の「友愛」にもそれを感じている。
《理由はわからずとも、それはある》
いまだ「数字にも数学にも解決できない」というより「数学的にそれを考えた人がいない」というだけであろう。
《不安や怯えているひと》に言いたいのは、理数で証明できなくとも、「事実が証明している人間の深さを《慈愛》によって感じて欲しい」ということである。
「南无=認許」という定義もある。
あなたもわたしも《まず自然が認めている》から「人間愛」がはたらいて、
必ず認めてくれるひとはいる。
いや、すでに認められているのに気づいていないのかもしれない。
「人間不信」になる前に「自我不信」だといえる。
あなたの「自我を受け入れる《阿弥陀如来》というはたらきがある」が、これを「摂取不捨」という。
「そのままのあなたを尊い」といって「受け入れている《宇宙的はたらき》がある」ということである。
「自我のアタマであれこれ考えるより」自然に流されてみたらよくわかる。
《究極宇宙に愛されているのだ》
これほど「強い感覚を得られるように自然に流されてみよ」と「多くの先人」がいわれるのである。
「不安に怯える友へ」
わたしも「あなたを愛している」のである。
多くのひとに「I love you」と伝えていきたい❣️