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2022-06-22 00:26:00

雑な真宗学‼️

真宗を学んでいくと、あまりにも雑な学問であるとしみじみと思うのです。

 

たとえば、親鸞さんが重要視している浄土論註も、あくまでも「無量寿仏」なのに、現代語訳で「阿弥陀仏」と訳されたり、「無量寿仏(阿弥陀仏)」なんて当たり前のように書いているけれど、どう読んでも、教行証文類をはじめ、親鸞さんにおいて、「無量寿仏」と阿弥陀仏は別ものなんです。

 

それを当然だという錯誤が、あらゆる学びのポイントで「ズレた学問」が、意味不明な真宗を生み出していると思うのです。

 

親鸞さんが「月を指す指」の「指を論じている」と間違いを指摘されているのに、そのまま「指ばかり見ている学問」になっています。

 

これでは「指」が指し示している「結論」が変わってくるのですから、これをよしとするなら、もはや「なんでもいい」っていうことになるのではないでしょうか…

 

はじめの「1度のズレが、進んでいくと、大きな角度のズレ」になるようなものです。

 

これが理数系ならば、0.00001の違いすら認められないということであり、より正確な解答を導き出すことになるのでしょう。

 

しかし、偶像の阿弥陀仏でも、人格的な阿弥陀さまでも、如来さまでも同じであるとはいえないでしょう。

 

かつて、灘本という勧学さんが、「阿弥陀」を「弥陀」と略すのは本来的ではない。

「無量が、有量に」なってしまう。

と言われました。

 

そこで、親鸞さんが、なぜあえてこう言ったことを無視されたか、ということについて考えなさいと言われました。

 

ここに正解はありませんが、親愛さんは、意図的な経典などの読み替えをされて、阿弥陀仏の教えをより真実真理に近い内容に復活させていると言えるでしょう。

 

釈尊の仏教や龍樹、天親さんの大乗無上法に阿弥陀仏の教えを戻す、指が指し示している月から離れていっていた教えを、「月へと方向を修正するための読み替え」をされているように思います。

 

 

そういうことが大事なのであって、「阿弥陀か弥陀か」ということは、サンスクリット語で学ぶわけではない日本人には、そこはこだわるところではないということだと思うのです。