インフォメーション(日々更新中)
2022-06-29 05:34:00
名前‼️
古く旧約聖書の時代から、「名前」を受け入れると言うことは、
その「支配を受ける」という意味で、「支配」というとなんだか操作される的なイメージがありますが、
そうではなく「私の主体になってくださる」ということなのだそうです。
キリスト教では、神との対話(祈り)の時に「イエスキリストのみ名において」と祈りますが、
私の主体になってくださっているイエスキリストに救われているという意味になるんです。
けど、これって、阿弥陀仏の名号も同じなのではないでしょうか。
帰命尽十方無碍光如来も、南无阿弥陀仏も、名前によって自己の主体が、煩悩だらけの愚者である私から、「仏ないしは如来」に変わるということなのですから、同じ構造によって救いを説いています。
こういうことがありながら、浄土教はキリスト教と無関係だとはどうしても思えないのです。
歴史的には、大乗仏教という点においては、キリスト教より後になりますから、どっちが本家だとか元祖だとかというよりも、両者否定できないということがここでは申し上げたいのです。
みなさんもキリスト教、主イエスキリストのみ名によって、アーメンという世界を知ってみてはいかがでしょう。
この「アーメン」もほぼ「ナーモ」と同じ意味で、「その通りと受け入れる」といった意味なのですから…