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2022-07-02 08:20:00
罪は深いか?
浄土の教えでよく言われる「罪業深重」ということについて、なぜ仏教でそんな表現がされるのかといえば、そもそもこの言葉が、善導という中国の僧侶の書物に由来していて、
その僧侶が大切にしていた「観無量寿経」が、中国で「キリスト教ネストリウス派(景教)」の影響を受けて作られたと思われるということが、まず第一にあります。
そして、第二には、「なんでこんなに苦しまなきゃいけないんですか?」という、論理のわからない、抽象論もわからない、文字も書けない読めない人たちに、「あなたは前世から罪をたくさん作ってきたからなんですよ」と納得させて、
その事例として「韋堤希(いだいけ)」っていう罪人の救いについての物語を教えて、そこに「南無阿弥陀仏」をとなえたら来世は極楽にいけるって教えられていますよ!
と納得させる教えにおいて「罪業重深」という前提が必要だったのでしょう。
しかし初期仏教における「罪」は「戒律を破ること」ですから、何でもかんでも「罪」ではなかったはずなのです。
そこで、平安時代というコンピュータもない、論理的な学問もかなり少ない時代に、このストーリーに意味があったのでしょう。
しかし、親鸞さんは、論理的かつ精神的なポイントを重視するひとだったので、このストーリーを単純には受け入れられなかったのでしょう。
そこで、善導さん以前の、曇鸞さんという僧侶が書いた「浄土論註」という理論書によって、阿弥陀如来というよりも、無碍光如来という観点で、この教えを解釈されたといえます。
それが教行証文類なのですが、これとて、のちの僧侶は、今に至るまで、「信文類」ばかりを重視して、引文をただの「証拠書類」のようにあつかっているために、本来の親鸞さんの理解は広まっていないといえます。
たとえば、親鸞会さんという宗教もありますが、結局「本願寺」と同じで内容は、親鸞さんの血統にあたる蓮如さんの教えになっているのです。
これがまた、善導さんに戻っているのです。
だから、現代人に、浄土の教えがわからないのです。
親鸞さんはいち早く、現代のような時代を迎えることを予測していたのか、現代でも理解できる論を教行証文類に書かれているんです。
まぁ基本的に、前世らしきものからの「罪業深重」ということは、およそ仏教ではないと言えるでしょう。