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2022-07-11 06:16:00
なに教を信じるか?それとも無宗教か?
宗教に限らず、その人の生き方は、出会いによるといえるし、出会いに限定されるって言えるって思う。
あなたも私もどこにいつの時代に生まれるかは選べないし、どんな人や環境や情報の中でなにを選んだり選ばされたりしていくかなんていうことも、このでっかい宇宙の中にある限りなく塵のような範囲で出会えるものに限られている!
だから、宗教だって信じる信じないも、自分が選んでるようでそうではなくて、出会いによるんだ。
出会った人が、いい人でそのひとに人間的に惚れたとき、その人が入っている宗教に入るかも知れない!
モノの考え方も、教育やメディアとか出会う人びとから得て来ているんだろう。
だから、みんな生まれてから生きていくプロセスの中で、「何やどういう人に出会うか」ってことで大きく人生は変わっていくし、みんなが同じ世界を生きているんじゃないってことがわかるんじゃないかと思う。
アートだって、ある作品を素晴らしいと思う人もいれば、全く興味のない人もいる。
職業だって、やりたいことが理想と違っているなんてことはよくあるけど、テレビやメディアで知ったその職業がじつは自分の理想ではなかったっていう現実に出会うこともある。
私もいろんな出会いの中で、なぜか人生の大半を僧侶っていうか布教使をやって来たけど、もともと出会っていたキリスト教福音ルーテル教会に帰って来たのは、いい加減日本の寺院や檀家さん、そして何より僧侶の在り方に「失望」を繰り返してきたからなんだ。
どこに行ってもそんなもんだと思うけれど、許容範囲がやはり違うっていえると思う。
寺は日本の歴史と共に流れてきた。
キリスト教は、日本文化にない西洋の文化や環境や宗教を持っている。
そこに再び出会って、私の命はそっちに行けって言っている。
出会いのない人に神のなんたるかを説明するのは難しいだろう。
しかし、仏教に出会ってるはずの人たちに仏教のなんたるかを話しても通じない。
日本人は、仏教さえもどうでもいいっていうモチベーションなのだから。
つまりは、みんな出会っているものごとと、選んだり選ばされてたりという中でしか判断はつかないのだから…
「一切」っていう言葉があるけれど、これは「自分が認識しうる物事の全て」ということであるから、宇宙規模、創造神規模から言えば「塵のようなひときれ」なのです。
私たちは、この「一切れ」を「一切」だと誤認識して生きている。
そこが分かれば、「なにをもってすれば、私の選んでいる宗教などが真実かといったことをわかってもらうことが可能か」「何をもって自己の信じているものごとの素晴らしさを理解してもらえるのか」ということがわかるだろう。
それは、理屈でも証拠書類などでも、権威でもなく、自分の出会いの中にある真実への感動の言葉を語ることではないだろうか。
私は、クリスチャンにそれを感じるけれど、エセ仏教徒にそれを感じることはない‼️