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2023-01-24 04:46:00

本来はそうなのだ‼️

養老氏のお話に、「昔はギターとか持った流しのひとが飲み屋に来て、自分の下手な歌にでも合わせて弾いてくれた」

「いまはカラオケに合わせる時代」

つまり人間が機械に合わせて生きることが当たり前になっていて、本来は人間に合わせた機械がある方が自然なんだ!

という内容のお話がある。

 

私も陥りがちであるが、「量子力学と仏教は同じ内容をいっている」といった説明をすることがあるが、仏教を科学に合わせる必要はないのだとわかってきた。

そうやって現代人に理解を促そうとする私自身も科学に合わせて生きようとしているのだろう。

キリスト教はおよそ科学に合わせる性質を持っていないどころか、人間や神の生々しい事実から始まる。

これを「事実じゃない」という人は、この先を読んでもらわばくても良い。

とにかく人間が把握している世界も何もかもが「脳」の産物といえるし「脳由来」である。

認知症になれば、およそいまの世界は大きく変化する。

兎にも角にも、いま私たち人間は、いかに生きていかに死すかという命題に取り組むしかないのである。

それを麻痺させるために、資本主義カルトの悪魔の教えがあったり、科学というどこまでも不確定な教義がある。

資本主義教、科学教というまことしやかな世界に取り込まれて、「引き寄せの法則」だとか言いながら、誤魔化しの中を生きている。

こういう人間の真実を神目線で「無茶苦茶な神が、贖いを持って人間を愛するキリストとして現れ、神の愛を生きること」を教え、死せば天国に行くと教える、

仏教でも「阿弥陀仏」というおよそ信じがたいものを信じさせようというのではなく、「仏を念じる=悟りに心を据える」ことが、「何者にも揺るがされない自己」「ブレない自己」を作り、周囲に功徳という影響力を持つものになる。

という現実をどうみるかという「観察(カンザツ)」という観点視点を教えているのである。

これは、共産中国にありながら「ナモアミトッホ(南無阿弥陀仏)」を生きかつ説き続けて来た「浄空法師」の人徳を見ればよくわかる。(ここに以前紹介した)

つまり、教えは「人間に寄るのであり、科学や機械に寄るのではない」のだから、純粋にそこを見ればいい。

その世界観を生き、その世界観に死すのである。

しかし、資本主義や悪魔の教えに毒された人間はその観点から逃げようとするのだ。

所詮「信用できるのは自分だけ」といっても、いつかはさまよっていることに気づくか、崩壊してしまうだけのこのわずかな「脳」でしかないのにである。

いま世界はキリスト教プロテスタントによる統治に入ろうとしているようであるが、これは好ましいことだと思っている。