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2023-07-05 23:52:00

同じようで違う!!

人間はなぜ苦しむのか?

それは人間はみんな宿業、つまり輪廻転生の中で罪悪を積んで来ているので、その報いが現れているのです。

 

では、その報いを消滅させるにはどうすればいいかというと、輪廻を解脱する修行を行い、功徳を積んでいくことなのです。

 

しかし、私たちは煩悩だらけの凡夫なので、浄らかな修行なんてできるはずもないのです。

 

では、そんな私たちは永遠に輪廻転生の中で苦しまなければいけないのでしょうか?

答えは「YES」です。

 

そんな無茶なと言って見ても日々愚かな行いをしているのですから仕方がありません。

 

ましてや今はお釈迦様が亡くなってから「末法」という時代的にもどうしようもない時代です。

「政治が悪い」「◯◯が悪い」と言ってみても仕方がないのです。

それだけ人間の愚かさが深くなっているのです。

 

しかし、じゃあ私たちは永遠に救われないのかというと、そういう訳ではありません。

 

唯一の救いが「阿弥陀仏の本願」なのです。

 

悟ったものである「仏」には多くの仏がおられますが、その諸物の王と言われる阿弥陀仏は、「修行も出来ない、自力で自己の罪業をいかんとも出来ない私」のために、「どうしようもないあなたを放って置けない」という願いを起こされて、必ず浄らかな浄土に救いとって悟った身にする。

という本願を起こされて、それに応じた果てしない修行をされて、その修行の功徳を南無阿弥陀仏という6文字に収められて、私や多くの凡夫にこの南無阿弥陀仏の功徳を受けとってくれよと喚びかけてくださっているのです。

ですから、私は、この南無阿弥陀仏を信じ受け入れて、永遠に輪廻転生の苦を生きて行かなきゃいけないはずの私が唯一救われる道として阿弥陀阿仏の大慈悲に感謝して、お礼の念仏の中で、この世は色々とあって苦しいけれど、やがてはお浄土へ生まれるのであると喜んで生きていくことができるのです。

 

そしてここで大切なのは、阿弥陀仏のこの喚びかけを「そのままに信じること」であり、「南無阿弥陀仏と唱えること」ではありません。

あくまでも「阿弥陀様の救いを喜び、感謝して南無阿弥陀仏と称える」のです。

 

そこに自力を交えてはいけません。

「こんな私でも大丈夫なのか。」「他にも何か修行をしたほうがいいんじゃないか」といった自力心を交えてはいけません。

ただ阿弥陀仏にお任せするのです。

 

以上

浄土真宗本願寺派の主流派の教義です。

 

ここでいう罪業っをキリスト教でいう原罪と同じとして、その罪業を南無阿弥陀仏の六文字が消してくれるということが、キリスト教でいう「イエスキリストの十字架による神の贖い」だとします。

 

そして、信じるのみで自力を交えないということが、神のことばを信じて受け入れることと同じ内容だとします。

そして、死後の行き先は「輪廻か、浄土か、天国か」ということになっるのでしょう。

しかし、神の福音(救い)は、現実の中で起こってくる恩寵に現れるのですから、この辺はキリスト校の方が現実的だと言わざるを得ません。

もちろん阿弥陀仏の教えを別の学派で解釈すると現実的な救いも表されるのですが、もはや消えそうな学派なので仕方ありません。

このように、もっといろいろありますが、浄土真宗本願寺派とキリスト校は似て非なるものと言わざるを得ません。