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2023-11-30 12:27:00
なぜ神は不遇な人を放っておき、サタンを存在させているのか?
まず、仏教のお話からしますが、仏教では基本的に「みんな無我」なので、
「私という存在はない」というのが教えの根幹です。
さらに「中神章生」なんていう名前のついた存在は「空虚な実体のない者」でしかありません。
つまり仏教では全てに「さしたる意味もない」というのが根幹になっているのです。
しかし、根本仏教やアビダルマ仏教を理解できない大衆が、「大乗仏教」を作って、
「みんなが救われるファンタジー」を生んだのですが、「救いの定義が曖昧」すぎて、
結局、幻想でしかない「浄土往生」といったところに救いを説くしかないというのが実態です。
しかもその幻想を現実だと思わせるためにも「輪廻思想」を以て、「次生には極楽にいくのだ」という設定が必要になって、およそ根本仏教とはかけ離れたものになっています。
大乗仏教も初期の華厳経などは返って難解で、普通は説かれませんが、親鸞はこれをふんだんに使っています。
どっちにしろ、人間に生まれて、仏法を聞ける縁が整ったものでなければ「救われない」のですから、「来来世」「来来来世」にも救われると阿弥陀さんは言ってくださっている。
なんていうような戯言に現実的に救われる人はいないと言えます。
そこで、キリスト教において、「なぜ神は不遇な人を放っておいたり、サタンを放置するのか?」と言う問いを出す人がいるなら、その人は神を知らないと言えます。
極論を言えば、我々は神が何らかの理由を与えて「中神章生」として生きているのですが、基本的に私がどうなろうと「神の創造物である以上、私のいのちの権利は神にある」と言えるので、神の自由なのです。
「全知全能」だからと言って、そのチカラを使うかどうかも神の自由なのです。
また、神の歴史には「時間」があるようでないとも言えますから、人類が勝手に科学だと言って時間の概念の中で、数千年なんて長すぎると思ったとしても、神には1秒ぐらいかもしれません。
キリストが生まれてほぼ2000年の間にも人間は苦しんできた。
または神が放置したサタンに苦しめられて来た。
としても、キリストの十字架の愛と復活を信じられたら、「私は神の所有するいのちであり、神は何らかの理由を与えて私を中神章生として生かしている」「だからその神が与えてくれたいのちと意味(理由)を神の導くままに神のいのちとして生きよう」となっていけます。
そこには「神が神の身体をキリストとして人間世界に生まれさせて、十字架につき、人間の罪を買い取って、神も愛の神として復活した」という重要なポイントがあるのです。
たとえば「障がいがある子ども」を授かったとして、「この子は神そのものであり、私を愛にふさわしいものにするために与えてくださったんだ」と思うことが、キリスト教的な現実的な救いになります。
神の愛を知らずに死んだみなさんのご先祖が救われているかどうかなんて、神が知っていれば良いのです。
そして神を信じる私は、神の愛によって救われていることや神の意思を祈りの中で聞きつつ、神のいのちを生きることで現実に「奇跡」が沢山起こっています。起こっているのです。
神の愛を信じないから奇跡が見えていない上、「不幸だ、おもしろくない!!」といった愚痴や不満の中でサタンに魂を売って生きていると言うのが、神を信じることができない人間の姿だと言えます。
《その事例》(宗教について)
ある命がこの広大な宇宙に誕生した。
その命は人間といわれ、2〜3歳になって、物心ついて「自分」という認識を持った。
なぜこんな広大な宇宙に、人間という生命が生きられる奇跡的環境があり、なぜこの命を「自分」と認識して、生きているのだろう。
宗教という言葉がどういうものを指すのか、これは宗教学というようなことではなく一般論であるけれど、
私は「人間」という命はそのまま「宗教的」であると思っている。
日本人や多くの人は、宗教なんか不要と言いながら、サタニストのアクマの資本主義の中で、魂を抜かれてお金に狂っている。
これは「アダムとイヴ」の物語を知らないと日本人には理解が難しいかもしれない!
旧約聖書において神は、初めての人間である「アダムとイヴ」を創り、「エデンの園のどの木のみを食べても良いが、中心のあの木の実は食べてはいけない」と言ってその場を去った。
そこに堕天使(ヘビ)が「あの木の実を食べても大丈夫」「神と同じ知恵を持つようになるから禁じているだけ」とイヴをそそのかして、イヴはそれを食べて、アダムにも勧めた。
しかしこのことが「神にバレて」ヘビは生涯地を這うものとなり、人間には産みと死という苦が課せられた!
現在でもこの堕天使を崇拝する人たちがいて、彼らが資本主義を作り、お金の奴隷とも言える人間を増やしてきた、これを経済の問題にすり替えているが、お金の奴隷を作ってきたのである。
つまり人間が資本主義社会に生まれた時点で、みんなサタニストになってしまっている。
宗教なんか関係ないというような状況にはいないのです。
$のマークは「ヘビ→スネーク」がアダムとイヴにトグロを巻いているサタニストのシンボルである。
しかし、いよいよその支配が終わりつつある!
日本人よ正しく世の中を認識してどうするかを考えましょう!!
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あなたのいのちはこの事例のようになっていませんか?
仏陀は無我といい、自我を否定した。
キリストは「神の愛」によるいのちとして、人間の「愚痴や不満」を「我」の主張として否定しているように思う。
我々は「自分」と言っているいのちが「固有名詞」を以てなぜ存在しているのか、神に祈りを通して聞くことで、私の存在意味が明確になってくることや多くの「奇跡」が見えるようになるのです。
死後ではなく、いま救われることが重要なのではないのでしょうか?
ここにおいて、「祈り」は「神との対話」という性質を持っており、日本式の「お願い」ではありません!!