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2025-03-08 00:59:00

神を信じる!

神の実在と日本人の無宗教への対峙

 

聖書的視点: 旧約聖書では、モーセが神の名を尋ねたとき、神は「わたしはある(I AM)」と答えました(出エジプト記3:14)。この「わたしはある」という神の名は、神が過去から未来まで永遠に存在し、自ら存在する唯一者であることを示しています 。この名は、神の自存性(他に依存せず存在する)と不変性を表し、万物の創造主・主権者であることを意味します 。新約聖書でも、イエス・キリストがヨハネ8:58で「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と言い、当時のユダヤ人たちに神の名「わたしはある」と同等の存在を主張しました 。この発言により人々はイエスを石打ちにしようとしましたが、それはイエスが神と同一の永遠の存在を自称したと受け取られたためです 。聖書全体を通じて、神の存在は前提として描かれ(創世記1:1等)、イエスも「父である神」を常に現実の人格として教えています。例えば、イエスは弟子たちに「天におられる父」に祈るよう教え(マタイ6:9-13)、「神は霊である」(ヨハネ4:24)とも述べました。これらは神が実在し、生きて働かれる方であるとの前提に立っています。また、新約聖書の教えでは「神を信じる者は、まず神がおられることを信じなければならない」(ヘブライ11:6)とも述べられ、聖書全体で神の実在が強調されています。

 

哲学的視点: 神の存在については、長い哲学史の中で様々な論証が提案されてきました。その代表的なものに、存在論的証明・宇宙論的証明・道徳的証明があります 。存在論的証明とは、「神とは“存在する”という完全な属性を持つ究極の存在である」という定義から出発し、論理的に神の実在を導く議論です 。11世紀のアンセルムスは「それ以上偉大なものが考えられない存在が神である」と定義し、もしそれが観念上にのみ存在するなら現実にも存在するものより劣るので、最も偉大な存在は現実にも存在しなければならないと論じました 。デカルトも同様に、「完全な存在である神の観念がある以上、完全性には実在が含まれる」として、明晰判明な観念から神の存在を直ちに推論できると主張しました 。次に宇宙論的証明は、この世界の因果関係や存在の連鎖を遡ると究極の第一原因または必要存在に行き着くはずだという議論です 。トマス・アクィナスは「あらゆる変化や原因の連鎖には始まりが必要であり、それが自己原因である神である」とする第一原因論や、「この有限で依存的な世界には、それ自体で必要な存在(根源)が必要だ」という議論を展開しました 。これにより、宇宙の根本理由として神の存在を論証しようとしたのです。また道徳的証明は、人間の内なる良心や客観的な道徳法則の存在が、最高の道徳的立法者(神)を仮定しなければ説明できないというものです 。カントは「最高善(完全な徳と幸福の調和)の実現には神と来世を前提せざるを得ない」と述べ、客観的道徳の成り立ちには神の存在が必要だと示唆しました  。同様にC.S.ルイスも「人類共通の良心と道徳律は自然には由来せず超越的な立法者を指し示す」と論じています 。これらの哲学的論証は、アウグスティヌスやアクィナス、デカルトといった著名な思想家たちによって精錬されてきた歴史があります。例えばアウグスティヌスは、不変で普遍的な「真理」の存在に着目し、変わらない真理そのものが神であり、人間の理性が真理を認識できるのは神の光によると考えました 。この「真理からの証明」によって、理性や真理の根拠として神の必然性を示そうとしたのです。また彼は美や善の究極の源として神を捉えるなど、直観的・存在論的なアプローチも残しています。こうした哲学的議論は神の存在を直接「証明」する試みですが、同時に反論や批判もあり(例えばヒュームやカントは因果の無限後退や存在論的証明に異議を唱えました)、現代でも議論が続いています。それでも存在の根拠や道徳の源泉を考える中で神を仮定することは合理的であるとの主張は根強く、現在の哲学者にも受け継がれています。

 

実践的アプローチ: 神を信じない人と対話する際には、相手の立場や疑問に真摯に耳を傾け、共通の土台を探ることが重要です 。まず相手が無神論・懐疑論に至った理由(科学志向、宗教への不信、悪や苦しみの問題など)を理解し、そこから議論を進めると良いでしょう。説明の方法としては大きく理性的アプローチと体験的アプローチがあります。理性的アプローチでは、上述した存在論的・宇宙論的・道徳的論証などを平易に紹介し、「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」「正義や倫理はどこから来るのか」といった根源的問いを一緒に考えます。相手が論理や科学を重視するなら、ビッグバン宇宙論や生命の調和について「宇宙の始まりや自然法則の整合性は偶然よりも知性ある原因を示唆する」といった議論も有効でしょう。また歴史的事実に基づくアプローチも考えられます。例えばイエスの復活の証拠を史料から検討することや奇跡的体験の記録など、客観的データを提示して神の介在を示唆する方法です。一方、体験的アプローチでは、個人の証し(証言)や宗教的体験を分かち合うことが効果的です。理屈ではなく実際に信仰を持ったことで得られた平安・喜び、人生の変革について語ることで、神の存在を間接的に伝えることができます。たとえば、元無神論者のジャーナリストであるリー・ストロベルは、キリストの復活が虚偽であることを証明しようと徹底調査した結果、かえってキリスト教信仰に導かれたという体験をしています 。このような知的探求から信仰に至った実例を紹介するのも説得力を高めるでしょう。また、議論だけでなく信仰者自身の生き方もメッセージとなります。神の愛によって変えられた人格や他者への愛の実践を相手に示すことで、理屈を超えた神の現実性を感じてもらえるかもしれません。対話では決して相手を攻撃したり嘲笑したりせず、謙遜で敬意ある態度を保つことが大切です 。相手の疑問に答えつつも、「信じるかどうか」は各人の自由意志に委ねる姿勢で臨みましょう。必要に応じて「もし神がいるとしたら…?」と想像上の問いかけを提案し、一緒に考えるスタンスも有効です。さらに、真理探求の旅路を応援する意味で書籍や資料(聖書、入門書、科学と信仰に関する本など)を紹介したり、教会や信仰者のコミュニティに招いて雰囲気を知ってもらうのもよいでしょう。理性と体験の両面からアプローチしつつ、相手との信頼関係を築くことが、神の存在を伝える上での鍵となります。

 

異なる宗教・思想との比較: 神の存在に関する考え方は宗教・思想によって様々です。それぞれの前提を理解し、比較しながら対話することが求められます。

 • イスラム教: イスラム教もキリスト教と同じく唯一神を信じる厳格な一神教です。イスラム教の神(アッラー)は宇宙の創造者であり維持者であり、永遠不滅にして全知全能の唯一者とされています 。イスラム神学では**タウヒード(神の絶対的な一性)**が最重要であり、神に比肩しうるものは何もないと教えます 。したがって、イスラム教徒に神の存在を説明する必要は通常ありませんが、キリスト教との比較では三位一体やキリストの神性が議題になるでしょう。対話では、**共通する信仰(創造主への信仰、アブラハムの神)**を土台にしつつ、それぞれの神概念の違いを丁寧に説明することが有益です。例えばイスラム哲学者のイブン・スィーナー(アヴィケンナ)は「必要存在」の論証を展開しており、因果の連鎖から唯一の必然的存在(神)を導く宇宙論的論証はイスラム思想にも見られます 。このように、両宗教に共通する論理を活用して議論を組み立てると理解が深まります。

 • ヒンドゥー教: 極めて多様な神観念を持つ宗教です。表面的には多神教であり、数多くの神々(デーヴァ)への信仰がありますが、その根底には**宇宙の究極原理としての「ブラフマン(梵)」の思想があります。ブラフマンはヒンドゥー哲学(ウパニシャッド)における絶対的な実在(究極のリアリティ)であり、万物の根源・最高原理です 。ウパニシャッドでは「梵(ブラフマン)はこの世界と存在の根底にある真理そのものであり、一切万有はブラフマンの表れである」と説かれ、ブラフマンは存在・意識・至福そのもの(サット=チット=アーナンダ)**であると説明されます 。この思想では、個々の自己(アートマン)は本質的にブラフマンと一体である(「タット・トワム・アシ=それが汝である」 )とされ、悟りによって自他の本質が神的実在に属することを知るのが目的です。したがってヒンドゥー教では、「神」といっても人格神(クリシュナやシヴァなど)への信仰と、人格を超えた絶対原理としてのブラフマンの哲学的理解が混在しています。ヒンドゥー教徒との対話では、唯一神信仰の概念が直ちには一致しない点に注意が必要です。「神の存在」の説明においては、「唯一の創造主」というより「宇宙の根源的な実在」という観点から議論すると共感が得られるかもしれません。例えば、「ブラフマンが万物の存在理由である」という考え方とキリスト教の「神は万物の創造主」という考え方の類似点・相違点を探りつつ、人格を持つ神と人間の関係について説明するなどのアプローチが考えられます。

 • 仏教: 仏教は一般に創造主なる神を認めない無神論的な宗教とされています 。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)は崇拝の対象ではありますが、「唯一絶対の神」ではなく悟りを開いた人間(仏陀)であり、仏教には世界を創造した絶対神も、全能の人格神も登場しません 。そのため仏教徒は通常、人生の意味や倫理を語るのに神を必要とせず、因果応報や縁起の法などの教理によって世界を理解します。ただし、仏教にもインド由来の神々(帝釈天や梵天など)は登場しますが、これらは悟りに至っていない存在であり、絶対者ではないと位置付けられます 。仏教との対話では、「神はいない」という前提を尊重しつつ、「ではなぜ何かが存在するのか」「苦しみや道徳はどう説明できるか」といった問いかけから始めるとよいでしょう。相手が仏教思想に親しんでいる場合、無理に「神がいる」と押し付けるよりも、仏教の中の超越的な概念(涅槃や仏性など)に触れながら、「キリスト教でいう神にあたるもの」を比較する方法もあります。例えば「仏教では真理そのもの(法)が最高の拠り所だが、キリスト教では真理は人格的な神として現れる」と説明し、人格神がいることの意義(愛の関係性や救い)を伝えることが考えられます。いずれにせよ、仏教の人に対しては対話そのものが哲学的議論に近くなる傾向があるため、相手の論理に敬意を払いながら、自分の信じる神の特徴を冷静に示すことが大切です。

 • 無神論・不可知論: 神の存在を信じない、あるいは「わからない」とする立場です。無神論者は「人は皆生まれつき信仰を持たないのだから、神の存在の証明責任は神を信じる側にある」と主張し 、科学的・論理的な証拠を重視します 。また、「神がいなくとも道徳や人生の意味は人間が自ら構築できる」と考える人も多いです 。不可知論者(アグノスティック)は「神の存在は証明も反証もできないので判断保留」という立場を取ります。これらの人々との対話では、まず神を信じない理由に理解を示すことがスタートラインです。「科学が発達した現代で神はいらないのでは?」という疑問には、「科学は事象のメカニズムを説明するが、なぜそのような秩序ある法則が存在するのかまでは答えない」といった切り口で議論できます。また「宗教は争いの原因」という批判には、過去の過ちを認めつつも宗教がもたらした道徳的遺産や人道支援の歴史を紹介し、公平な視点を促すことも有意義です。重要なのは、個々の無神論者も様々な価値観を持つという点です。倫理的に高い理想を持つ人もいれば、単に関心がない人もいます。対話ではその人が大切にしているテーマ(例えば正義、愛、死生観など)を見極め、それに即して「もし神が存在するとしたら、そのテーマにどんな光が当たるか」を提案してみると良いでしょう。直接「神がいる」と主張するより、「神がいると仮定すると、道徳の根拠や生きる希望がどう変わるか」と問いかけ、一緒に考えるスタンスが効果的です。不可知論者には、決断を迫らず「引き続き探求してみては?」と資料提供したり、自分の体験をシェアして興味関心を刺激することが有効でしょう。無神論・不可知論の人々との対話において何より大切なのは、相互の尊重と開かれた議論です 。お互いに批判的思考を交えつつも人格攻撃に陥らず、共に真理を探す姿勢で接することで、信仰の有無を超えて理解し合える可能性が生まれます 。

 

効果的に伝えるための提案: 上記の聖書的根拠、哲学的議論、実践的方法、他思想との比較を踏まえると、神の存在を信じない人に伝える際には次のようなアプローチが有効と考えられます。

 1. 相手に合わせた説明: 相手の関心や背景に応じて、理性的アプローチと体験的アプローチを組み合わせます。論理的な議論が好きな人には宇宙の始原や道徳の源について話し、個人的なストーリーに心を動かされる人には自身や他者の証しを語ります。どちらの場合も押し付けではなく「一緒に考えてみる」という対話姿勢を持ちましょう。

 2. 聖書と日常の言葉を橋渡しする: 聖書の言葉(例えば「わたしはある」 )や教理をそのまま伝えるだけでなく、現代の言葉や身近な例えに言い換えて説明します。「神は自ら存在し万物の基盤となるお方」という教えを、「空気のように私たちの目に見えなくても、生きるのに不可欠な存在があるかもしれない」と表現するなど、相手がイメージしやすいよう工夫します。

 3. 敬意と傾聴: どんな議論よりも、相手を尊重する態度が伝道の土台です。相手の話す疑問や批判を最後まで遮らずに聞き、「あなたの考えは理解できます」と認めましょう 。こちらの主張に反対されても感情的に応じず、冷静に追加の情報や視点を提供します。敬意ある対話は、それ自体が信仰が人を成熟させる証拠ともなりえます。

 4. 生活で証しする: 言葉だけでなく行いを通して神の愛を示すことも効果的です。利他的な行動、誠実さや喜びに満ちた生き方は、しばしば「なぜそのように生きられるのか?」という興味を相手に起こさせます。その問いに対して初めて「実は私には信仰があって…」と神のことを紹介すれば、押し付けがましさは軽減され、生きた証拠として受け止められやすくなります。

 5. 長期的な視野と祈り: 一度の議論ですぐ相手が納得するとは限りません。むしろ時間をかけて少しずつ理解が深まるものです。相手のペースを尊重し、疑問が出るたびにともに調べたり話し合ったりする中で、信頼関係を築いていきます。その歩みを支えるために、自分自身も学びを続け、相手のために祈ることが大切です。最終的に心を開き信じるかどうかは相手の選択ですが、こちらの誠実な働きかけはいつか相手の中で意味を持つかもしれません。

 

以上のように、聖書の真理を押し出す信仰的熱意と、相手の立場に立つ思いやりや論理的配慮を両立させることが求められます。神は「ある者」(自存し生きておられる方)ですが、人間には見えないために信じ難い存在でもあります。そのギャップを埋めるために、聖書的な教えを分かりやすく伝えること、哲学的に筋道立てて説明すること、そして何より自分自身が神の愛と存在を体現する生き方を示すことが有効です。最終的には、相手自身が「神が本当におられるかもしれない」と思えるきっかけを与えることを目指し、謙虚かつ根気強く対話を続けていきましょう 。そうすることで、神を信じない人にも「神は確かにおられる」という信仰の核心が少しずつ伝わっていくはずです。