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2022-02-25 23:34:00

キリスト教と仏教は同じ⁉️

そもそも仏教は、根本仏教からアビダルマ仏教に至る間にほぼ完成していて、中観と倶舎、唯識、つまり、龍樹と天親に完結していると言えるでしょう。

 

大乗仏教には、既にキリスト教やその他の宗教や文化の影響が入り混じっていて、そういうことが聖書やそれに類する文献を読むことによって明確になります。

 

そもそも世界の文化的な歴史は、キリスト教などの4000年以上前からあるのに、交流がないなんていう方がおかしいのではないでしょうか。

 

私たちが、昭和末期位に学んでいた頃には、そういったことを書いた本がたくさん出ていましたし、そういうことを普通に論じていたものです。

 

しかし、平成の時代を経て、そもそも自分の宗派の教えについてすら本を書く人がいない、これといった論文を書く人もいないといった状況の中で、どんどんセクト意識が強くなり、同じ宗派の中で〇〇先生の言うことが正しいといったような、狭い狭い世界へと僧侶や布教使や学者がはいっていることが、どんどん資質を低くしていると思わざるをえません。

 

私は、台湾に仕事で行っていた時、台湾のテレビ局で朝から晩まで仏教の話をしている局がありますが、それを見ていました。

そうすると、南無阿弥陀仏について、阿弥陀仏の力で華厳の世界へ導いてくれるといった話がよくあったように思います。

私が学生だった頃、龍谷大学などに台湾のお坊さんがよく勉強に来ていましたが、今思えば、教行証文類を漢文のまま読んでおられたのではないかと思うほど、内容が親鸞さんの書かれたものによく似ていたと感じていたのを思い出します。

 

仏教は、インドの時代から、様々な西洋文化と混じり合って、中国の文化、朝鮮半島の文化、日本の文化なども含まれつつ今日に至っているとほぼ間違いなくいえるでしょう。

 

また、科学においても、西洋の科学が中心になって日本に来ているので、何か別なもののように思われていますが、科学と言うものは、そもそも神を見いだすと言うところから発生していると言う原点を考えたとき、その究極の問題はキリスト教などと変わりはありません。

 

つまり、神がどこにいるのか、どういう存在なのか、と言う問題と、量子や素粒子がどういう状態でどういう存在なのか、そもそもなぜ宇宙が生まれたのか、そもそもなぜビックバンが起こり得る必要があったのか、そしてなぜ人間が生まれているのかといった根源的な問題は、キリスト教であれ、科学であれ、同じところに問いは行き着くのです。

 

しかし、科学は人格性を持たない、宗教は人格性を持つため、その根源において別のことを論じているように錯覚をしていると言わざるをえません。

 

また、科学は世の中において様々な役に立っている、あるいは科学によって世の中のいろいろなテクノロジーが成り立っている、といった有効性を論じる場合でも、

 

キリスト教や宗教が世の中で科学と同じように人間に影響を与え、有効性を持って動いていると言うことに気づいている人はどれだけ日本にいるでしょうか。

 

今世界が驚くほど大きな変化を遂げようとしていますが、こういった世界の歴史は、バイブルに基づいて動かされてきていると言うことを知る日本人は少ないように思います。

(あえてバイブルと書くのは、翻訳やメイスンリーのものなどによって、ひとつ全く同じとは言い難いからです)

 

また、バイブルにおいては、人間がいかに生きるべきかと言う点について、比較的日常的な問題について、細かく、天国(神)にふさしき人間になると言うことが書かれていますが、

 

仏教、中でも浄土教において、浄土に生まれるために阿弥陀如来の教えを信じる、と言うところに、日常的な具体性がほぼ皆無であると言う事が、曖昧な状態なまま、意味不明に報謝の念仏生活を過ごすといった無力な教えになっているようにも思えるのです。

 

今ここで、人間がただチリのように流され、ただ舞い落ちていくのか、聖書(バイブル)にあるような具体的な教えを心に持ちながら、世俗で起こることをしっかりと見極めつつ、よりふさわしい方向へと動いて生きていくのかと言うことが問われている境目が今なのではないかと思っています。

 

ここで私は、仏教がどうとかキリスト教がどうとかと言うことを言ってるのではなく、セクトにこだわるのではなくより多くを学び、人間や社会の根源を見つめる人がより多くなることによって、人間にとってふさわしい=神や天国=さとりにふさわしい方向に生きていく人たちがより増えていくことを提言していると言うことを理解していただきたいのです。



2022-02-22 20:30:00

煩悩とアクマ‼️

1、あなたには「煩悩」があるから「罪」を作るのです。

2、あなたの中にいる「アクマ」が「罪」を作っています。

 

みなさんにはどちらの表現が、「ほんとうだ」と思えるでしょう。

 

1、は、論理的ですが「無機質」な感じで、うなずけるけど、「そんなもんだ」といった感じ!

 

2、は、物語り風ではあるけれど、「ひょっとして」という「なにかそういう部分ってあるかも」という「後ろめたさ」に惹かれるものがある!

 

と、私は感じています。

2022-02-21 21:16:00

翻訳‼️

たぶん今年、武田宏道先生が、「阿毘達磨論(倶舎論)」の「サンスクリット語」を、玄奘三蔵など、いくつかの翻訳本を照らしあわせて、より忠実な「阿毘達磨論」の中身を明確にした40年以上かけて書かれた本が出ると思います。

 

私が20代の時から、ズッと

書き続けておられて、いつも「いつ出るんですか?」って聞いてたんです。

ようやく「今年には」というお話でした。

 

こういったことを、ひとりの学者がじっくりとやってきて、どれだけの人が読むのかって思うんですけど、出版されたら是非読んでいただきたいと思います‼️

 

キリスト教は、こういったことを全教団あげて、日本語でも20回以上の翻訳の改正がされているとお聞きしています。

 

「明日を憂う必要ない」「明日は明日が考える」

という翻訳と、

「明日は明日考えれば良い」

という翻訳では意味が全く異なってしまうのですから、

翻訳というのはほんとうに重要だと改めて思っています!

2022-02-21 01:43:00

聖書の奇跡‼️

聖書を読んでいる。

キリストの奇跡が多数綴られている。

普通にはあり得ないと思うと、「解釈」をしようとする。

 

「死んだ少女が生き返った」なんて書いていると、「それは実は死んでいなかったんじゃないか」といった具合である。

 

しかし私は、とにかく全てを記述のまま受け入れて読んでいる。

するとどうだろう、そういう奇跡はあると思えてくる。

 

そうしていると、目の前に起こることや、そもそも自分の存在自体が奇跡にしか思えない。

宇宙だってそうだろう。

 

なんで宇宙なんてもんがあるのか。

とにかく全ては奇跡であり、日常的に考えられないことのみを奇跡と言っていたけれど、その範囲が広がっていくと同時に次元を高めていく。

 

そして、そのベクトルがさらに細かくなっていくと、死者を生き返らせることさえ、可能なことだと思えてくる。

あり得ないと思っていたことが、あり得ることだと思えるようになって、日常的に思考していることがどんどん意味を変えていくのである。

 

聖書をありのままに読むことで、人生への思考がこうも変化するとは不思議である。

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