インフォメーション(日々更新中)
2022-02-06 07:04:00
名前と色‼️
仏教の基本と究極は「常一主宰」も「個我」もない「無我論」である。
「常に一つのものが主になって動かす」という「神」のような存在もなく、「我」や「我の所有」ということもない。
考え方においても、これが「正義」というのは、「ひとりひとり違う」ので、「互いの意見や立場を尊重すること」が「無我なる生き方」といえる。
どのようなり方でも「尊重」するのが「真理」であり、「一切を摂取不捨」するという「阿弥陀如来の世界観」である。
ここでポイントになるのは「摂取不捨の世界観や人格のありようが、無我の世界観」ということであって、「阿弥陀如来の実存」ではない。
「阿弥陀如来」という「月を指す指」の先にあるのが「無我」である。
人間は「名称と形態」にこだわる。(名色)
これを超える「無我の法」が阿弥陀如来である。
だから人間などを「無我」とする「人無我」と「法も無我」という「諸法が無我」《法無我》と説かれる以上、「阿弥陀如来」も「無我」でなければ「仏教が説く真理ではない」から、、
浄土も「無我であり、無常である必要」がある。
浄土という「器世間」も、浄土の「人天」や「菩薩や仏」という「衆生世間」も「無我」である。
自己も全ても「その思いや思考も無我」であるから「摂取不捨」が成り立つのである。
法話において「阿弥陀如来」も「法無我前提」で語られなければ「真理」ではあり得ない。
あくまでも「世界観」なのである。
そこに「指で指し示した《月》」が見える。。
2022-02-06 07:02:00
話法は巧みである‼️
「わたしの妻は重病だったけれど、適切な医師に出会って治癒しました」「このように適切な診断をしてくれるのが阿弥陀如来です」
ーーー
たとえば「こう言った話し」があるとする。
聞いたひとは、「奥さんは重病だったんだ」という「情」を感じつつ、
「阿弥陀如来」への「情的理解をする」。。
じつは、「この妻の病気」という文言を「あるひとが重病で」というと「同情」を得ることはない。
こういった「巧みな話法」に「洗脳されている」ことに気づくひとは少ない。
そして「妻である必要がない話し」と「妻の病気見立て」と「阿弥陀如来」とは論理的整合性はない。
なぜなら「阿弥陀如来」をこの「情的理解」のみでは、ほんとうの意味で知ることにはならないからである。
「阿弥陀如来」の論理的根源を「布教者は語っていない」からである。
昨今こういう話法を用いて「ファンを増やし、収入を増やし、名を売る」ニセモノが、布教現場に増えていることに、嘆きを覚える。。
2022-02-04 12:48:00
初期仏教と福音ルーテル教会‼️
《いろんな宗教がありますが、この宗教はすごかった、素晴らしかった。そんな体験はありますか?》
【回答への感想から】
ありがとうございます😊。何か素晴らしい宗教の原点的な論理があったのですね。教えてくださりありがとうございました。ありがとうございます😭
《返信》
エラく感動していただきありがとうございます。初期仏教は、無常、無我という誰にもどうすることもできない真理の中で、どう生きたらいいのかを教えています。それを仏陀の智慧が教えているんです。無常(必ず全ては変化する)、なのに、「本来はありもしない自我にとらわれるから苦のいのちを生きなければならない」「しかしDNAを持って人間として生まれた以上、自我へのとらわれを上手に離れることで、かえって全てが功徳に転じていく」といった内容ですが、なかなか仏陀の智慧に学ぶと、心が安定してきます。
また、福音ルーテル教会は、「聖書のみ」から始まって、聖書のどのページから読んでもそこから「神の啓示」を感じ取って行けるように「神との対話」という意味での祈りをします。これはあくまでも私と神の問題であり「信仰のみ」ということになります。そこにはカトリックなどのように「権威者も決裁者もなく」あくまでも「神の言葉としての聖書」との対話から、自己のあり方を「愛、恩寵」というキーワードで感じ取っていくんです。
するとこれも仏教のように「私の愚かさを神が恩寵へと変化させてくださる、私がそうである理由」を知っていくことができるため、起こっていることが「恩寵なんだ」と理解できるようになるんです。やはりいずれもが「慈悲や愛」という法則があるんだなぁと感じさせてくれる教えだと言えるでしょう。