インフォメーション(日々更新中)

2022-04-16 22:27:00

宗教者は堂々と一喝せよ‼️

「誰がなんと言おうと阿弥陀如来の法がある」

と言い切って欲しいし、私はそう言い切れる‼️

「クリスチャン僧侶」なんて「意味不明なこと」をいってるおかしなヤツが、なにをいってるんだ‼️

と言われそうだが、「神は創造主」であって、かつ「背信の人間を天にふさわしくする者」であって、全てを超えている。

 

阿弥陀如来は、「とにかくどんな者でも救うという救いの法」である。

そういう意味では、存在としては「一即一切」の「複数の仏を包摂する一仏」である。

 

神は、「何もかも包摂する一」であり、対人間にとっては「神と人」の「ニ」でもある。

仏には「ならなければならない」が、神にはなれないからこそ「私」が問われる。

 

いずれにせよ、「それらが存在するなら信じる」といっている人間が、テクノロジーに突っ走り、DNAまでも弄り倒して、出来もしない「宇宙移住計画」なんていって、「地球をゴミのように捨てて捨て去ろう」としている。

 

こんな人間という「バカな生き物」は、絶対的に「仏になる」か、神への「畏敬の念」をもって、「天や浄土にふさわしいもの」とならねばならない‼️

 

これは今や「人間がアンドロイド化する」一歩前にありながら、宗教者、ましてや宗教的指導者には「急務」である。

 

科学がどう言おうが、哲学がどう言おうが、「人間が急速に滅びに向かっている事実」を見れば、「おまえらはなにをいってるんだ‼️」と一喝するほどでなくてはならない!

 

「どうせいつかは地球もなくなる」なんていうものがいたら、目の前に泣いている子供がいて、「どうせいつかはおまえも死ぬんだ」と言えるだろうか!

どうせいつかは死ぬ「あなた」でさえ、なにをそんなにアクセクしているのだ!

 

人類の滅びを進めてはならない早めてはならない、と思うならば、与えられている「宗教」に真剣に取り組むことがまずはなにより重要であろう。

もちろんそれが、「排他的カルト」では困ったものであるが…

 

 

2022-04-16 21:38:00

背信‼️

「サタンレベルの背信」って、

次元を下げると、「自然破壊、テクノロジーによるDNA、電磁波操作」「宇宙移住計画」など、

人間は、物理学者のホーキング氏が「あと100年持たない」と言わしめたほどの「愚」に突っ走って、

宗教や信仰を嘲り、自滅への一途を辿っていると言えるのではないだろうか‼️

2022-04-16 21:37:00

支配‼️

陰謀論で「〇〇に支配されている」というけれど、その支配に乗っかって、なんやかんやいっても平和に安心安全なんて都合のいい生き方をしている。

けれど、魂のどこかが納得してないんだろう。

だから「支配されている」って思う。

社会のシステムが何者かに支配されていても、自分の魂を売らなきゃいい‼️

少なくとも私はそうやって生きてきて、魂が満足してるからこの世での使命がなくなれば、いつだって天に召されたらいいと思っている。

 

みなさんへ‼️

ほんとうにどんだけ自分の心をほじくっても「自分にウソをついていない」そして「後ろめたいことはない」という生き方をされれば、魂は喜んで生きていけるでしょう。

あなたの主体は神なのです。

2022-04-16 20:12:00

信仰に生きる‼️

神に救われたいから「信仰」をするわけじゃない。

「神の言葉」を我が魂の中心にすることで、神レベルの次元に生きることができる。

たとえそれがどんな「苦」であろうと、人間が「サタンレベル」の背信を生きているのは間違いないのだから、その苦難を受け入れなければならないのは当然である。

しかし人間の最たる愚である悪魔の心を、イエスが受け入れて贖われた。

それこそ1人の青年が「時空を超えた全人類の愚」を背負ったのである。

ならば、私の苦はなんなのだろう。

「我欲やわがまま、ちょっとした怖れ」からきているものではないか!

「神レベルの愛」すら「神なんかいない」というようなひとことで片付けようとする「ほんのちっぽけなサタン」でしかない。

「神がいる」から信仰を持つのではない。

「神レベルの自分であるかどうか」という次元を知るために、たとえ「どんな苦」に襲われようとイエスの十字架に贖われた私の魂が信仰の中に生きるのである。

2022-04-15 05:18:00

60近くなって‼️

私はいま58である。

なんだか、世間から置いていかれている感もあるし、

周囲から置いて行かれている感もある。

若い頃バリバリやりすぎたせいか、ギャップが激しい。

嫁も、楽しいことを見つけては、楽しそうに出かける。

それはそれで良いが、こんなうるさいおっさんは誰も相手にしない。

 

そういう意味で、男の老年っていうのは惨めなものなのかもしれない。

そういう意味では、「住職」っていうのはいい立場だ!

何を言おうが「住職さん」のいうことだから誰も無視はしない。

 

いままで、お寺っていうのは、高齢者であまり相手にされていない門徒さんが、

総代や役員やといって、みんなから相手にしてもらうためにもいいんじゃないかと思っていたけれど、

それはまさに自分自身のことだったとはいままで気づかなかった!

 

兼業寺院なんかは、世間の職業を終えて、住職として鎮座して居れば、少なくとも檀家さんは何かと相手にしてくれる。

専業寺院だってそうなんだから、寺院は現世から消えゆくものの、最後のビハーラ(安息所)なのかもしれない。

そう思って住職道を歩むとなにか、現世を終えかけてる、わたしにもなんかできるのではないかと思えるようになってくる気がする‼️