インフォメーション(日々更新中)
2023-08-01 00:58:00
いま次元が変わっている!!
日本にいきている私たちは、「給与や税金がどうこう」というかつての3次元を見ていては、事実に目覚めることがないでしょう。
なんであれ、世界中のひとは「日本は素晴らしい」という。
それは日本の本質を知らないからだといいたくなるかもしれませんが、なんであれ「治安だろうがマナーだろうが…」こんな国はないという人たちは多いですね!
そして、そういう海外から仕事に来てる外国人は、日本の制度に愚痴を言わず、そのルールでビジネスをやっていこうとするし、現代の若い人も、現状の中でどうするかって言うように、創造主の意図を汲んだうえで仕事をしているようです。
みなさん神の創造による本来のあり方に目覚めると、日々が全く違って見えます。
いまがその時なんですね!
2023-07-30 00:58:00
宗教は人間が作った?
人間が弱いから、人間にとって好都合な「宗教」がある?
しかし、「キリストの神は人間に罪を見せて、人間にとって不都合な在り方」を求めてきます。
とはいえカルト的ではなく、それぞれの自由を認めています。
しかし、この教え(言葉)を踏まえて生きていると、人生が深くあたたかくなっていくのは、真理だからと言えるでしょう。
ただ生活のために日々労働をしながら、わずかな楽しみに生きるなかで、歳いくほど寂しくなるような生き方が人間が人間の能力を出し切って生きていると言えるのでしょうか。
仏教においても同じことが言えるでしょう。
時空を超えたところの神とまではいかないまでも、やはり人間が愚かな生き方をしないように「悟ったもの」の智慧に生きることを教えているのでしょう。
マトモな宗教は人間が「弱いから」ある、のではなく、人間が「愚か」だからあり、より高次元な状態へ引き上げてくれる叡智だと言えるでしょう。
2023-07-29 18:48:00
部外者から!
仏陀は、いのちも何もかも「無常ゆえ無我」といいました。
つまり私という主体自体が幻想なのです。
けれど、阿弥陀如来という「方便の我」があって、私たちはその方便の「我」に、浄土という「方便の器世間」に導かれるということですが、「現生」も「妄念により認識されている器世間」ですから、教えのすべてが「妄念と方便」でなりたっているのは間違いないわけで…だから、一部の念仏者意外は絵空事のように「教えを語り」生きようも偽善的で愚痴に堕しているように実感するんです。
もともと寺生まれでも、真宗門徒でもなかった私は、得度の時から「疎外感」があり、布教使としても「一匹狼」にならざるを得ませんでした。
しかしなんとかやってきましたが、ええ加減都合よく利用されてるだけの状態がしんどくなっています。
布教の現場で「ちゃんとした話」よりも「お笑いや人情噺」を求められて、「ちゃんとした話」をすると「難しい」といって、住職さん自らが底上げをしようとされないことから、寄って集まれば経営の話しか、どこの坊さんがどうなったというような宗派内の世間話ばかりで、聞いててしんどくなるので、なるべくそういう集まりに出ないようにしていると、参加しないというペナルティのような扱いをうけるわけです。
どうぞ僧侶のみなさん、自浄作用と底上げを考えられますように、もともと部外者から僧侶になり布教使になったものからの観点を記述しておきます!!
2023-07-17 23:16:00
クリスチャンと「仏教徒⁇」‼️
私は、私がいままで「否定的にみていたひと」さえも、すべて神が創造されて「神に愛されているひと」だと心から思えるようになった時から、私の見ている世界やひとが変わってきています。
そして、ほんとうのクリスチャンはみんなそうなんです。
私が知る身近なクリスチャンに、一般的な「性格悪いひと」は見受けられません。
私が知る仏教徒には、そういう人は多いですけど…!!
これはあくまでも仏教批判ではなく、事実を記述しているだけです。
「クリスチャンでも性格悪いひと」もいるのでしょうが、その人はたぶんほんとうのクリスチャンではないと思います。
だからって「カルト」のようなクリスチャンでもありません。
鳥取の牧師さんや教会メンバーは「坊主然としていた私」をも大事に思って、昨年の私の病気をズッと案じてくださっていました。
陰謀論でいろいろ言われてるある有名どころのメンバーさんが私の親友にいますが、ホンモノのそういう人たちは、いろいろな人たちや私のことまでも大事に思ってくださっています。
例えばその人は、坊主である私が「今日檀家(門徒)さんが亡くなって、お葬儀なんです。」なんていうと、「それはお辛いですね」って普通におっしゃいます。
「檀家や門徒というメンバーが亡くなる」のですから、クリスチャンやそういう神を信じる人たちからすれば、その死を悼むのは当然なんです。
坊主である私は「葬儀をどういう日程でどうするか」とか、お布施がどうとか、そんなことしか考えてはいませんでした。
(ほんとうにお恥ずかしい😱)
もちろんステキなお坊さんも多いものです。
ただ、仏教でいえば「一切衆生」は、とにかく情のある動物(有情)でしかない。
人間も動物も「無常であり無我な存在」だから、それを悟らせる利他をしましょう!!
って言っても、親鸞さんが「人間は所詮悟れない」から、阿弥陀仏に任せて「あるがまま」でしかないんですなんていうように開き直ったようなありさまだから、「愛がない」んですよ。
もちろん親鸞さんがどう思っておられたかなんてわかりませんが…!!
「神が創造されて神にいただいた命を互いに生きている」って思うと、イヤなひとがいなくなるんです。
イヤなひとがやってるイヤなことは「アクマ」がさせているんだから、その人を嫌がることはないんです。
この辺が仏教では、「煩悩がさせてる」ってなるので、「イヤなことの原因がその人」に帰属するんです。
だからその人がイヤになる。
憧れの人がやってることも、そのひとに帰属せずに「神による」と神を讃美することができる。
そのひとに帰属するとその人をカリスマのように思ってしまう危険もあるわけです。
カナメは「所詮人間のこと」と思って生きるか、「神による広大で永遠な観点から創造されたひとやこと」と信じることができるかどうかということだといえるんじゃないかって思うんです。
「神やアクマとかわからん」っていうのは、普通に人間界を生きてたら思うのは当然です。
だから人間の境界を越えられないんだなぁって今さらながらに思うんです。
「オマエはなんちゅうわけのわからんやつや!!」
って思われるとは思うのですが、それが普通であり当然だと思います。
ただバイブルに回答があるようですよ(微笑)