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2023-07-17 23:16:00
クリスチャンと「仏教徒⁇」‼️
私は、私がいままで「否定的にみていたひと」さえも、すべて神が創造されて「神に愛されているひと」だと心から思えるようになった時から、私の見ている世界やひとが変わってきています。
そして、ほんとうのクリスチャンはみんなそうなんです。
私が知る身近なクリスチャンに、一般的な「性格悪いひと」は見受けられません。
私が知る仏教徒には、そういう人は多いですけど…!!
これはあくまでも仏教批判ではなく、事実を記述しているだけです。
「クリスチャンでも性格悪いひと」もいるのでしょうが、その人はたぶんほんとうのクリスチャンではないと思います。
だからって「カルト」のようなクリスチャンでもありません。
鳥取の牧師さんや教会メンバーは「坊主然としていた私」をも大事に思って、昨年の私の病気をズッと案じてくださっていました。
陰謀論でいろいろ言われてるある有名どころのメンバーさんが私の親友にいますが、ホンモノのそういう人たちは、いろいろな人たちや私のことまでも大事に思ってくださっています。
例えばその人は、坊主である私が「今日檀家(門徒)さんが亡くなって、お葬儀なんです。」なんていうと、「それはお辛いですね」って普通におっしゃいます。
「檀家や門徒というメンバーが亡くなる」のですから、クリスチャンやそういう神を信じる人たちからすれば、その死を悼むのは当然なんです。
坊主である私は「葬儀をどういう日程でどうするか」とか、お布施がどうとか、そんなことしか考えてはいませんでした。
(ほんとうにお恥ずかしい😱)
もちろんステキなお坊さんも多いものです。
ただ、仏教でいえば「一切衆生」は、とにかく情のある動物(有情)でしかない。
人間も動物も「無常であり無我な存在」だから、それを悟らせる利他をしましょう!!
って言っても、親鸞さんが「人間は所詮悟れない」から、阿弥陀仏に任せて「あるがまま」でしかないんですなんていうように開き直ったようなありさまだから、「愛がない」んですよ。
もちろん親鸞さんがどう思っておられたかなんてわかりませんが…!!
「神が創造されて神にいただいた命を互いに生きている」って思うと、イヤなひとがいなくなるんです。
イヤなひとがやってるイヤなことは「アクマ」がさせているんだから、その人を嫌がることはないんです。
この辺が仏教では、「煩悩がさせてる」ってなるので、「イヤなことの原因がその人」に帰属するんです。
だからその人がイヤになる。
憧れの人がやってることも、そのひとに帰属せずに「神による」と神を讃美することができる。
そのひとに帰属するとその人をカリスマのように思ってしまう危険もあるわけです。
カナメは「所詮人間のこと」と思って生きるか、「神による広大で永遠な観点から創造されたひとやこと」と信じることができるかどうかということだといえるんじゃないかって思うんです。
「神やアクマとかわからん」っていうのは、普通に人間界を生きてたら思うのは当然です。
だから人間の境界を越えられないんだなぁって今さらながらに思うんです。
「オマエはなんちゅうわけのわからんやつや!!」
って思われるとは思うのですが、それが普通であり当然だと思います。
ただバイブルに回答があるようですよ(微笑)
2023-07-14 03:57:00
愛の世界へ!!
世界を動かしている者は「神」である!!
いま大変革を遂げようとしている世界を動かしているひとは「バイブル」によって生きている人々です。
そして今までもそうでした。
つまり神が世界を創り動かしてきているのです。
みなさんの中には、世の中は政治が動かしている、お金が動かしている、と思っている人や、権力が動かしていると思っているひと、陰謀によって世の中が動いてると思っているひとなんかもおられるかも知れません。
しかし常にどんなもののうえにも神が存在しているのです。
そして、愛の世界の実現が近くなっています。
愛を理解できず、チカラによる者は終わります。
お気をつけください。
そこで淘汰されませんように…!!
2023-07-12 20:45:00
永遠なるひと!
みなさん!
ビッグバンっていうのはホントにあったんですか?
引力はありますか?重力はありますか?
あなたが見てるものを他の人もそのように認識していますか?
あなたは周囲からあなたが思うようなあなたとして見られているのでしょうか?
海が好きですか?山が好きですか?
なぜ絵画を描いた時、描く人によって違うのでしょう。
以上、バラバラな観点から事例を挙げましたが、私たちはひとりひとり認識が異なっているのです。
なので、死ねば終わりと認識しようと、永遠に生きると認識しようと、同じなのです。
あなたの家族で誰か亡くなって、その方が永遠に私を導いてくれるっていうのはありなんです。
記憶の中にその人がいて、記憶と現実のはざまで、その人が生前に言いそうもやりそうもなかったことを記憶とともに私にメッセージしてくれるという事は普通にあるのです。
そして、その人を知ってる人たちからしても、メッセージを感じようとどうであろうと、思い出せる限り存在します。
そしてそれが永遠な存在というのは、その人を覚えている人はほぼ50年もすればいなくなるので、「覚えている人が存在する間、記憶にある限り永遠」ということになります。
歴史に名を残せども、人類みんなが知ってるわけじゃないし、そのうちその名声を上書きする人が出てくれば自然に消えていきます。
短く文字にすると難しいようですが、むちゃくちゃ単純な話です。
こういった観点からしても、死者を大事に思うことは有益であり、さらにその方が神仏などの高次元にいると思うほど、思っているあなたが、自分でその方からメッセージをもらうようになって自己成長することができるようになるんです。
宗教はそういう意味でも重要なんです!!
2023-07-12 01:34:00
神の愛を生きる!
つくづく感じることですが、世の中をどうているかによって、その人の人間性って、すごく違って見えます。
「お金やビジネス」に血眼になってるひとは、多くの場合「自分がうまく行っているかどうかに関わらず」人を「落伍者か失敗者」のようにみているように思える時があります。
ある40代で起業しようとして居る人に「ビジネスも人の気持ちをまず大事にした方がいいよ」って言ったところ「まだ自分の人格形成を考える年齢じゃあありませんから…」と言われて、「中神さんぐらいになったら考えます」って言われたけれど、私のようにハタからみていて、人生をうまく生きてるかどうかわからんような人間を理解できない人が一般的に多いように思います。
大学出てなにがしかの公務員かなんかになって、取り立てて問題もなければ、人生はそれでいいんじゃないかって思ってる日本人は多いように思います。
また、フリーランスでも自由に生きられたらいいと、SNSなんかをうまく使って「自分らしく生きたい」っていう現代スタイルも多いようです。
しかしそういう人たちをみてて「愛が足りない」とおもうんです。
これは、愛をもらうにしても提供するにしても…!
もちろんここでいう愛は恋愛の愛ではありません。
まぁ簡単に言えば「人間愛」というのでしょうか。
けれど、人間みんな「誰かをいとおしく思う、哀れみの気持ちが起こってくる」と言ったこと、いわゆる人間愛が起こることってあると思うのですが、そこを大事にしない。
通り過ぎて行くんですね。
なので、なんか寒々とした人間関係に「家族」ですらなる、なんて事は普通に多いと思います。
聖書はいいます。
「あなたに愛が起こった時、それがあなたに向けられた神の愛そのものだって…」
「あなたが愛を放棄する時、それはあなたがサタンを受け入れることを許したのだと…」
仏教のように、「行として慈悲を行う」といった、たいそうなものではないんです。
神の愛を受け入れて、そこで生きると周囲が大きく変わっていくんです。
私が、阿弥陀仏の慈悲を喜ぶとか、大悲を行じるとか言ってた時は、周囲はなにも変わりませんでした。
いま、いろんなことが私の周辺でも大きく変わりつつあります。
2023-07-05 23:52:00
同じようで違う!!
人間はなぜ苦しむのか?
それは人間はみんな宿業、つまり輪廻転生の中で罪悪を積んで来ているので、その報いが現れているのです。
では、その報いを消滅させるにはどうすればいいかというと、輪廻を解脱する修行を行い、功徳を積んでいくことなのです。
しかし、私たちは煩悩だらけの凡夫なので、浄らかな修行なんてできるはずもないのです。
では、そんな私たちは永遠に輪廻転生の中で苦しまなければいけないのでしょうか?
答えは「YES」です。
そんな無茶なと言って見ても日々愚かな行いをしているのですから仕方がありません。
ましてや今はお釈迦様が亡くなってから「末法」という時代的にもどうしようもない時代です。
「政治が悪い」「◯◯が悪い」と言ってみても仕方がないのです。
それだけ人間の愚かさが深くなっているのです。
しかし、じゃあ私たちは永遠に救われないのかというと、そういう訳ではありません。
唯一の救いが「阿弥陀仏の本願」なのです。
悟ったものである「仏」には多くの仏がおられますが、その諸物の王と言われる阿弥陀仏は、「修行も出来ない、自力で自己の罪業をいかんとも出来ない私」のために、「どうしようもないあなたを放って置けない」という願いを起こされて、必ず浄らかな浄土に救いとって悟った身にする。
という本願を起こされて、それに応じた果てしない修行をされて、その修行の功徳を南無阿弥陀仏という6文字に収められて、私や多くの凡夫にこの南無阿弥陀仏の功徳を受けとってくれよと喚びかけてくださっているのです。
ですから、私は、この南無阿弥陀仏を信じ受け入れて、永遠に輪廻転生の苦を生きて行かなきゃいけないはずの私が唯一救われる道として阿弥陀阿仏の大慈悲に感謝して、お礼の念仏の中で、この世は色々とあって苦しいけれど、やがてはお浄土へ生まれるのであると喜んで生きていくことができるのです。
そしてここで大切なのは、阿弥陀仏のこの喚びかけを「そのままに信じること」であり、「南無阿弥陀仏と唱えること」ではありません。
あくまでも「阿弥陀様の救いを喜び、感謝して南無阿弥陀仏と称える」のです。
そこに自力を交えてはいけません。
「こんな私でも大丈夫なのか。」「他にも何か修行をしたほうがいいんじゃないか」といった自力心を交えてはいけません。
ただ阿弥陀仏にお任せするのです。
以上
浄土真宗本願寺派の主流派の教義です。
ここでいう罪業っをキリスト教でいう原罪と同じとして、その罪業を南無阿弥陀仏の六文字が消してくれるということが、キリスト教でいう「イエスキリストの十字架による神の贖い」だとします。
そして、信じるのみで自力を交えないということが、神のことばを信じて受け入れることと同じ内容だとします。
そして、死後の行き先は「輪廻か、浄土か、天国か」ということになっるのでしょう。
しかし、神の福音(救い)は、現実の中で起こってくる恩寵に現れるのですから、この辺はキリスト校の方が現実的だと言わざるを得ません。
もちろん阿弥陀仏の教えを別の学派で解釈すると現実的な救いも表されるのですが、もはや消えそうな学派なので仕方ありません。
このように、もっといろいろありますが、浄土真宗本願寺派とキリスト校は似て非なるものと言わざるを得ません。