インフォメーション(日々更新中)
2020-10-17 00:23:00
炭疽菌も😅
こういう時代になってきましたよ😅
パニックにならず、「死をも辞せぬ覚悟」(さとり) に据わって生きましょう‼️
事情通のベストフレンドから、先ほどの草津テロ予告に対して、、
頭のおかしい人が増えてきましたね…
炭素菌なんて個人でどうやって管理できるんだと、小一時間(こいちじかん)問い詰めたい。
という落ち着くようにアドバイスがありました😊
テロ組織ならば、わたしも「なんで草津やねん」と思います❣️
2020-10-16 22:54:00
持たない❣️
報恩講に寄せて
中神章生
みなさん、いまの時代はいろんなことが次々起こって、数十年でムラも大きく様変わりしているのではないかと思います。
若いひとの思いもよくわからない、逆に若い人はお年寄りが生きてきた背景を知ろうともしない。
人間の世というのは、どんどん変化して、身近なひとの気持ちすら理解できないと多くの人は感じられているのではないでしょうか。
また、世の中では「コロナ」だとか多くの不安材料が報道されています。
このようななかで「ボンヤリと不安」のなかにいるひとや「怖いような不安」のなかにいるひとも多いことでしょう。
こういうなかで「仏壇」へ向かって「礼拝する」というようなことも忘れがちになっているかたもおられるかも知れません。
人によっては「神も仏もない」と思ってしまわれるのも納得です。
この世はそんなふうに「嘆きたくなること」がほとんどかも知れません。
そこで、「礼拝」という言葉をもう少し深く知っていただいたら、かなり楽になっていただけるのではないかと思うのです。
仏教の「礼拝」という言葉の、本来的な意味は「屈服」という意味なんですが、
人間は、自然界に「屈服」することを「腹に据えて」生きなければ、天災地災にさえ怯えなければなりません。
わたしは、人災においても、結局のところ「災害」と同じだと思っています。
わたしは幼少期に「火事」を経験していますが、「だれのせいか?」なんて考えて「怨んで見ても」なにも帰ってこないことを親から学びました。
最近でも大事にしていた骨董品を、母が「ゴミ」に出してしまいました。
けれど、こういったことも「自然災害」だと思えば、済んだことに苦るしめられることもありません。
人間だってそもそも自然界に「なにも持たずに生まれでたのです」から、持つことよりも捨てることこそが「楽になれること」が本来だということを忘れているのではないかと思います。
「菩薩像」はいろいろなものを持っていますが、「仏像」はなにも持たないのが基本です。
仏はなにも持たないのです。
現代社会は「持つこと」を進めますが、人間の本来は真逆のようです。
そういう摂理から、自然界に於いても人間界においても、すべてにおいて「屈服すること」が「捨てること」であり楽になるポイントだと思います。
仏への礼拝は「すべてに屈します」ということです。インドにおける礼拝の本意です。
みなさんもこのように思ってみてください。
けっこうゆとりのある気持ちになっていけます。
親鸞聖人も最後には「なにも持たずに往生」されたのですから。。
2020-10-16 04:27:00
お身体にお気をつけてください‼️
「お身体にお気をつけてください」とはよくいうけど、
「お気持ちやお心にお気をつけてください」っていわないのはなぜなんでしょう😆
2020-10-15 20:44:00
苦しい人生‼️
生きるって大変ですね。
「みんなはうまく生きてる」って思うひともいると思うけど、
うまく生きてるように見せてるだけですよ。。
お金だって「儲かりつづけるひと」は、ほぼゼロ%です。
多くの経営者は、60代からようやく楽になったら儲けもんっていってます。
それまでは「試行錯誤」の連続ですから、一時的なものばかりです。
とくにこれだけ時代のスピードが早いのですから、今日は良くても明日はダメになることがほとんどです😊
安心してください。
わたしも同じです。
もしわたしが同じじゃないと思うひとはなにが違うのでしょうか?
たぶん、わたしは、まずこのことを「理解している」っていうことだと思います。
だからあれこれ頑張っています😆
2020-10-14 18:47:00
言語で違う世界観❣️
【言語の世界観】
もともと正義と訳される英語の「ジャスティス」は英語の本義は「正義」ではなく、「バランス」の意味で、じつはほぼ仏教の「中道」です。
そもそも民族の認識や概念が違うから、翻訳っていうのは誤解を生むんです。
「絶対」を「Absolutely」と訳しても、アブソリュートは「完全なる解放者」を意味していますから「相対」に対する絶対ではないんです。
「ビールありますか?」でも「あなたはビールを持っていますか?」という聞き方になるように、言語の世界観が違うから、翻訳の世界観をそのまま受け取っては間違うんです。
だから、サンスクリット語を中国語にして、日本の感覚で理解してきた仏教の世界観さえも、あくまでもその時代の日本の僧侶の感覚による理解という観点が基本です😊