インフォメーション(日々更新中)
2021-01-19 01:01:00
水谷了義氏FBより❣️
ソーシャルディスタンスが提唱され、対面の部分にパーテーションや距離ができた。人数収容のキャパが減った。
「配信」という手法が一気に躍り出る。
1000人を目指してチャンネル登録を促す人や、やりたいようにする人など一種の社会現象がうまれる。
当初、海外や離れた人たちに久しぶりに見てもらるなど少し明るい話も出てくる。
しかし、生の空気感なんかが伝えられないというデメリットが発生。
次の問題点。
アーカイブを残すかどうか。
お金を取るか。
お気持ちをいただくか。
無料か。
それでもこの形しか今のところ思いつかないので配信を続けていく。
機械に疎い人は配信ができない。
配信のみ。
配信と動員有りとを混ぜる。
人間のみの昔ながらのスタイル。
の選択を迫られる。
いつしか、配信でアーカイブが残ってるから後で見るという発想が生まれる。
いつでも見られる存在になる。
「価値」が違うものに替わってきた気がします。
ライブハウスの話だと思いました?
「お寺」のことなんです。
でも、すごく似てますよね。
やれることをやるのは大事です。
やらないよりは良いです。
ちなみに私がお預かりしてるお寺は配信してないです。
なんか色々見落とし始めてる気がするんですよねー。
配信で見られるならわざわざ行く必要ないなっていう人が出てくるとか。
◯◯離れ、、加速させる要素、、はらんでますよね。
そもそも素人なんですよ。
お寺は番組作りの。
なら、お前やってみろよって言われそうですよね。
落ち着いたらやろうかな。
くそぅ。歯痒い。
2021-01-19 00:45:00
単一性と多様性‼️
ひとを育てることが、年齢に関わらず、
そのひとの能力に応じた「専門分野」と、
様々な観点から見られる「多次元認知」が重要なことだといえます。
そのために「日々の流れ」においても、普段と同じことの中にある、
違った観点で見ることをしてみることは「多くの発見を生んだり」
「さらに効率の良さ」「また見逃していたこと」などが見えることでしょう。
うちの中でも「座る位置」などを変えることで、
見えていなかったことが見えるようになります。
また、「なぜ」という観点でものごとや情報を見ていれば、
「筋が通るか、通らないか」がわかります。
つまり、なんで国はこうなっているのか「おかしいでしょ」という疑問が出たら、
当然何かがあると思わねばなりません。
この点が日本人には弱いため、「筋や理由」を問わないで、
起こっていることの問題のみに集中して、大局が見えなくなるんです。
どうか、ひとを育てることを考えつつ、自らの見聞を広められますように。。
2021-01-18 03:41:00
スーパードライ‼️
仏教の本質は、相当な「ドライ」な論から成り立っています。
そこで論理性を身につけることが釈迦の覚醒ということになります。
「苦しむ自我」そのものは存在しない。
「自我執着」を取れば良い。
しかしそれだと社会的に生きるのに都合が悪い。。
しかし、お愛想と無我を駆使する智慧によって、苦はなくなる。
そして慈悲という観点から、人間と関われば良い。
しかし「この自己といういのち」が合わないと思う生命と無理に関わる必要はない。
世の中がどうなろうと、この根源は変わらない。
2021-01-16 19:43:00
仏教者においてすべきこと‼️(前の内容への加点)
「還浄」という表現をされることがありますが、これは本来「わたし」が「浄」から現れて「浄にかえる」という意味になります。
ここで「わたしという生命」と「わたしの心」を分離して、
「わたしは原子や素粒子から生まれている」という側面と、
「わたしはDNAによって思考や行動をしている」という側面のズレを考察する必要があるでしょう。
でなければ、親鸞さんのうえで、阿闍世は権化であるととらえる場合に、これは「事実ではない」という前提がなければ、「阿闍世の悪性」もすべて本覚である、真如からすべてが現れているという誤解が生まれて、結果「いまでも本願ぼこり」を生んでいます。
親◯会などはそういったことを悪徳企業に向けて説くことで財をなしてきています。
本覚思想がいう「基体から個体」(原子や素粒子からわたしという個体)が生まれているという側面が「差別やアクも本来真如」だとすることになります。
法話で「他人の悪性」を「如来さんがわたしの本性を見せてくれている」といったことを語るひとがいます。
「親鸞一人がため」を誤解して、「わたし個人の問題」だとして、以前の「信心の社会性」を問うことを、バカらしいというスタンスになります。(空華)
ここにズレを生むことと、そもそもの「縁起説」が十二縁起にあることを忘れていて、「これある故に彼あり」という「十二縁起説とセット」になった文言のこの部分だけを取り出して「縁起説」だとすると、「不善によって善あり」ということをいうことになるという、そもそもの十二縁起説を語らない縁起説が問題になります。
この点は「始覚思想」となります。
つまり「いのちは原子や素粒子から現れた」けれど「DNAにある情報がわたしをどう迷わせているか」ということを考察することによって、「無明の闇を破ること」が必要であるという側面が重要だと言えるでしょう。
DNA情報を、わたしのいのちにおいて、周辺のいのちを含めて「良き情報に書き換えること」(他利利他)が、「わたしがわたしのいのちにすべきこと」だといえるでしょう。
仏教はこの両側面を説いていると言えるでしょう❣️
2021-01-16 19:20:00
原子とDNA‼️
「還浄」という表現をされることがありますが、これは本来わたしが「浄」から現れて「浄にかえる」という意味になります。
ここで「わたしという生命」と「わたしの心」を分離して、
「わたしは原子や素粒子から生まれている」という側面と、
「わたしはDNAによって思考や行動をしている」という側面のズレを考察する必要があるでしょう。
でなければ、親鸞さんのうえで、阿闍世は権化であるととらえる場合に、これは「事実ではない」という前提がなければ、「阿闍世の悪性」もすべて本覚である、真如からすべてが現れているという誤解が生まれて結果「いまでも本願ぼこり」を生んでいます。
親◯会などはそういったことを悪徳企業に向けて説くことで財をなしてきています。
本覚思想がいう「基体から個体」(原子や素粒子からわたしという個体)が生まれているという側面が「差別やアクも本来真如」だとすることになります。
法話で「他人の悪性」を「如来さんがわたしの本性を見せてくれている」といったことを語るひとがいます。
「親鸞一人がため」を誤解して、「わたし個人の問題」だとして、以前の「信心の社会性」を問うことを、バカらしいというスタンスになります。(空華)
ここにズレを生むことと、そもそもの「縁起説」が十二縁起にあることを忘れていて、「これある故に彼あり」という「十二縁起説とセット」になった文言のこの部分だけを取り出して「縁起説」だとすると、「不善によって善あり」ということをいうことになるという、そもそもの十二縁起説を語らない縁起説が問題になります。
この点は「始覚思想」となります。
つまり「いのちは原子や素粒子から現れた」けれど「DNAにある情報がわたしをどう迷わせているか」ということを考察することによって、「無明の闇を破ること」が必要であるという側面が重要だと言えるでしょう。
仏教はこの両側面を説いていると言えるでしょう❣️