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2021-10-25 01:37:00

ニセモノ⁉️

2019/10/24現在❣️(復習)

 

「偽」は、「人の為と書くでしょ」とよくいわれますが、

 

これは「人為」(じんい)というのが本来のようです。

 

「人為的になにかを為すこと」を「ニセ」というのです。

ここでわかるのは、、

 

「真実」は「自然の法」(自然即無我に至ること=利他力念仏)

「仮」は「さとりへの自我行」(自我力行)

(発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国=第十九願=さとりが真の楽を得ると知って[諸行をする])

(聞我名号係念我国植諸徳本至心回向=二十願=さとりが真の楽を得ると知って[自我力念仏をする])

「偽」は「人為的救い」

つまり、「さとり以外の救いを説く教え」(仏教以外=外教)という種別です。

 

化身土文類は「この論点を明確」にして「真実への誘引」が「自然の法」によって成され、

それは、「外教を含めたすべてである」という内容に広められているというポイントが、、

「化身土文類の本巻」が「仏教」

「化身土文類の末巻」が「外教」となっていて、

 

ラストが「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。

結ばれている「理由」でもあり、

 

この菩薩は「一切菩薩即法蔵の一菩薩」ということであるといえます。

 

つまり「この教えは人為的救いを説くもの」も「世界宗教も」すべて「その根底は《自然と無我》に至る誘引」から「摂取のため」に「無色無形絶言」「無碍光」の真理から「出ている」という側面と、、

 

だから「可能な限り、無碍光の真実を行じるもの」になるようにという「深意」があると読むことができなければ、

「救いの本質が《全宇宙的》であり、十方衆生への自然の法である」とはいえなくなるでしょう‼️

 

【観察行】について。。

昨日「お尋ねがあったので記述」します。

「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、

「一切の仏性」であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。

ーーーーーー(お尋ねから)

今日はお久しぶりにお目にかかれてうれしく思いました。

今日お話が途中になりましたが、五念門の具体的事例として、

まずは、おっしゃっていたように家族と共にお仏壇で礼拝すると言うことをやっていただき、その延長線であったり、ご家族との夕食の時間でもどのようなシーンでも良いので、まずは仏陀釈尊の無常無我の教えによって思うことなどを語り合っていただいたり、日々の中でご自身が病気などを通してどういうところで怖れを感じて自分自身にプレッシャーをかけていたかといった実体験に基づくことを話題にしていただくと言うのも良いと思います。

それが、法蔵菩薩の行である五念門の真理への屈服礼拝から、阿弥陀の光明によって知らされた自ら作り出したプレッシャーに自らが振り回されていたことに目覚めさせられた。

と言ったことを讃嘆として語っていかれたり、ご家族のご意見を聞いてみられたりするのも良いでしょう。

そして、〇〇様の命がどのように動こうとしているかと言うことを計らいなく純粋に見つめて、その〇〇さんの命の願いについても、話題にされて行かれたら良いかと思います。

そして、人間観察などをするなかで、世の中の状況や情勢をも観察の対象として、その中で感じたり思うことも話題にされたら良いかと思います。

そういった礼拝、讃嘆、作願、観察から自分の日々の歩みと願い(命の目的)を明確にしていきながら、それを実行していくと言う回向発願の歩みをスタートされると良いかと思います。

それは、人間の楽しみの中で行うこともできると思いますし、仏教は単純に真理を明確にし、迷う事は無いですよ、パニックになることも、不安に怖れることもありませんよと言う教えです。

こうであらねばならないと言うことを教えているものではありません。

ねばならないと言うありがとう歩んでしまうと、教条主義になって本来苦から解放される教えが、そうであらねばならないという新しい苦を生んでしまいます。

煩悩の林に遊ぶが如く、戯れるが如く、〇〇さんの命が仏教によって、より楽しくなっていく姿をご家族に見ていただくと言うことが、大会衆を導いていくようになっていくことでしょう。

大乗仏教の根幹とも言える華厳経を親鸞さんも根幹にしておられると思いますが、華厳経の善財童子が53人の人を訪ねていって人間と命のあり方と悟りと言うことを明確にしているのですが、この善財童子は、遊女なども訪ねて学びをされています。

そんなふうに、すごい人とか偉い人とかそんな人に学ぶと言うよりもどんな人でもどんなシーンでも観察すると言う事は大きな学びや知恵になるものです。この観察と言うことを難しく考える必要もなく、人間観察ウオッチングという気軽な感覚で取りくまれる方が良いものです。

2021-10-24 17:42:00

存在‼️

人間が認識していることはすべて幻想である。

 

真実などないというパラドックスに真実はあり、

そこに神智学のいう神がある。

 

人間の認識が幻想ならば、神という幻想を真実として認識する。

そしてその幻想である神は「神が作った幻想」である。

 

そこに真実を真実として見据えていくところに「神智学」の教える奥深さがある。

 

ここにおいて「仏」も「真実の神」が幻想として認識させている真実であると「仏教徒」はいいたい。

 

近代になって神智学を失った者たちが「神の実存」を人間の認識やイデアなどという観点から認識しようとするから、、

 

「神はいない」という存在が問題になってしまうのである。

 

ある意味唯物史観である。

 

神智を学ぶということは、「幻想という人間の認識の根源」に幻想の神という「真実の神が在る」という前提が必須である。

 

近世の哲学者などがミスったのは、人間の認識によって神を理解しようとしたことであり、現代の宗教者においても、神の存在証明ができないという「浅い思索」から神を理解しようとしていることである。

 

「神がいるかいないのか」という問題を幻想的認識しかできない人間が論じるには、あまりにマクロにおいてもミクロにおいても無理がある「ということに目覚めたもの」こそが、、

自らの見識の狭さを知り、「神ないしはそれに準ずるところ」に謙虚をもって、神智を学ぶと姿勢が生まれるのである。

 

物理学においても、なかなか「相対性理論や量子論」の11次元を超えられない、アインシュタインですら、神への畏敬の念を持っていたということが意味するところでもある。

 

つまり宇宙や地球や生命体そのものを研究できても、それらがそもそもどこからきたのかをまず「真の意味で理解していない」という、思考の順序を間違えているからである。

 

神智学の奥義には、そこが明確なのであるが、これは「秘密」として現代も守られているため、内容を知る人は少ない。

 

また現代に至るまでの多くの物理学者や数学者なども、そのメンバーであるなどということも知られていない。

2021-10-22 03:58:00

ヒトラー‼️

【浄土系仏教に詳しい方に質問です。『歎異抄』には悪人正機という言葉がありますが、ヒトラーのような極悪人は浄土に生まれ変われると思いますか?もし彼が極楽往生したらホロコースト被虐殺者の人々が怒りませんか?】

 

親鸞と言う人の教えについて、浄土往生を死後のこととするのは、西本願寺の巨大勢力による教義で、親鸞の教行証文類が明確になっていない時代の権力闘争に勝った勢力によります。しかし、その学派以外の諸学派は往生を現生として、死後は悟り(滅度)であると教行証文類によって理解されています。この巨大学派は、阿弥陀如来を一神教のように崇拝して、とにかく信じろと感謝しろという「封建社会」に貢献する内容なので、封建主義国家において都合がよかったのです。その他の学派は救われるのは救うものになることで、無量寿経という経典にある法蔵菩薩道を歩むことをメインにしており、きわめて現実的な論によっています。また歎異抄自体が実際には出自不明なので、高田派という親鸞直弟子の派では用いられていません。また、ヒトラーのホロコーストは、ヒトラーの案ではなく、側近がやったことをヒトラーがやったと歴史に刻んだのが、ヒトラーが狙ったイギリスのロスチャイルド勢力によります。ヒトラーもロスチャイルド家の末裔ですが、南アメリカに移住して、家系の中で不遇な中にいましたが、ヒトラー自身が、演説以外に能力はなかったなどとFOXが盛んに報じています。CSナショジオTVでヒトラーについて、不遇な子どもということから、多くの資料映像でヒトラーのイメージを本来のものに変えていっています。ヒトラーの幼児期については「ヒトラーのセックスライフ」などで明確にされて、「女性について苦手意識」があり、これは幼児期の父親からのDVの影響で母親を求めていたといったことや「私はドイツと結婚した」と演説で述べているから、と言っていたなどのように、本来のヒトラーがどういうひとだったかを報道しています。このようにヒトラーのイメージさえ、プロパガンダによって虐殺者にされていますが、よほどスターリンやその他の指導者の方が虐殺者です。仏教で言っているように、私たちは無明ですから、なにが正しいなんて言える立場にないのです。これが親鸞の教行証文類に明確にされているポイントでもあります。

2021-10-21 18:57:00

ひとり子‼️

「一子地」を「ひとりご」といって、真宗では一般的に「親子の関係による子ども」という意味で使われますが、、

 

この「一子」の語源は、あくまでも限定的に「シャカとラゴラ」の親子関係におけることを指しており、各経典では「一子羅睺羅」と表現されることが多いのです。

 

シャカは「妻」と子どもである「ラゴラ」を残して出家し、ラゴラに「地獄の苦」を味わわせて、ついには「ラゴラ」は「さとりを得る」ことになりますが、、

 

ラゴラが「地獄の苦」のなかにいるときに、あえてシャカは手を差し伸べてはいません。

 

しかも「ラゴラ」は、シャカの弟子として「仏教教団」に入ったため「世俗の親子の情」のなかに「ラゴラ」を置くことはなかったのです。

 

そういう意味では「法」は「あくまでも《教え》のなかに内在して」おり、直接「阿弥陀仏がなにかをしてくれる」ということはないのです。

 

「ラゴラ」も「師であるシャカの《教え》」からさとりを得たのであり、「シャカ」が息子だからといって「何かをした」ということではないのです。

 

「阿弥陀仏」がわたしたちを「一子のように哀れむ」という場合、あくまでもその「教え」をよりどころとせよという意味であると解釈する方が、より仏教として適切といえます。

2021-10-20 06:38:00

遊び戯れる‼️

【本願は命の願い】

教行証文類の「教文類」には、「無量寿経」という経典が真実であると書かれています。

この経典に「阿弥陀如来」という文言は出て来ません。

無量寿という「命の願い」が真実だと記述されていると思っていいでしょう。

つまり、「自分の命の願いに嘘をつかない」という命のあり方を教えていると思うのです。

「私の命に授かった願いは、計らうことなき素直な気持ち」だということです。

「どうしたらいいか?」は命が教えてくれるのです。

人間は「計らって、企てて生きよう」とします。

そこで「悩んだり、感情に流されて」しまうのです。

教行証文類の信文類に「私に真実心はない」という教えがある。

と、教学者はいうでしょう。

それは「我執心」にとらわれて苦しんでいるということを教えられているのだといえるでしょう。

純粋に世の中を生きていこうという命のあり方で言えば、「自己に湧き出す願いに嘘をつかない」ということが、「仏性、如来」を生きる「命の本願」の世界感を生きることになると言えるでしょう。

仏教は「教条や倫理」ではありません。

つまり「ねばならない」を教えているのではありません。

真実心に生きることで、「我執による、怖れや苦悩がなくなって生きていけること」を教えているのです。

教えを生きることで、「煩悩の林の中を、遊ぶが如く、戯れる如くに生きられる」ことを教えてくれているのです。