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2021-09-21 02:31:00

チップ‼️

チップと言う制度について、

日本以外の多くの国は、チップを払うと言うのが普通になっています。

台湾なんかでも、連泊する場合、枕元何かにチップを置いておくと、ベッドメイクの人が喜ばれます。

何年か前の話ですが、台湾のすべてのビルの中は禁煙と言うことになりました。

その際でも、普通の倍の金額になる100台湾ドル(呼称は置いといて)の金額を置いておくと、部屋でタバコを吸ったことがばれていても、ベッドメイクの人が黙っていてくれるから100台湾ドルおいといたら大丈夫と言われました。

その頃1台湾ドルは、日本円で約3.5円位だったのでざっくりと繰り上げて 4円としたら、100台湾ドルを置いてあれば、10室で1000台湾ドル(約4000円)になります。20室で2000台湾ドル、これを20日間で計算しても40000台湾ドルになります。

これを日本円4円で換算すると160,000円と言うことになります。

 

これは大雑把な計算ですが、こうなれば、もともとの給料より高いと言うことになります。

駐車場なんかでも、駐車場を管理している人にチップを多めに渡すことによって、大事に車を預かってくれたりします。

 

このように考えると、チップの方が給料以上の収入になる人も多く、仕事へのモチベーションにもなったりと言う効果があると思うのです。

 

逆に、チップの安い人に対して、いい加減な扱いになったりと言う堕落の方向にも進むと言う可能性は大いにあります。

 

こういうことを考えてみると、日本は給料以上の余分な収入を得ると言う手段が、残業であったり、副業であったりと言うことになりますが、本業の給料以上のものをそこから得ると言う事は難しいと言えると思うのです。

 

また、人間的に仕事をする中で、チップによってその裁量が変わるとか、人間同士の機微を感じ合うとか、そういったところに功罪もあると思うのです。

 

そういう点において、チップの文化と言うのは、労働される方にとって、功罪を検討して、ある意味あっても良いのではないかと思うのです。

働き方改革に於いても、日本が本当の意味で国際化する中で考えても良いことなのではないのでしょうか。

 

日本人は、貯金を美徳とする中で、お金を払いたくないとか、ひとによって金額でサービスの差をつけるということには納得がいかないという意見は多いと思います。

 

もちろんチップの功罪と言うのは、ここに書いたこと以上のものがあると思いますが、改めて今の「日本の仕事」についてふと思ったのです。

 

なお、タクシーの運転手さんにとっては「お釣りはいりません」と言うのは大変ありがたいことなのです。

これはチップと言うことではなく、タクシーの運転手さんは、釣り銭を自分の懐から準備しなければならないと言う前提でお釣りを準備しているので、先出しして、コンビニで10,000円を出してコーヒーを1缶買ったりとかそういう手間が厄介なことなのです。

 

ですから、タクシーに乗ってワンメーター位で10,000円を出されてしまうと、さっき崩したばっかりのお釣りがなくなってしまったと言うことになります。

 

この点を考慮され、タクシーに乗られる時は、お釣りを渡してもらわなくてもいいような支払い方をできるようにすると言うことが乗る側の気配りとしてあると良いと思うのです。



2021-09-20 05:34:00

【無為法】ご参考に‼️

【無為法】(ご参考に)

 

三無為

 部派仏教中の説一切有部によって主張される。

択滅無為(pratisaṃkhyā-nirodha-asaṃskṛta)

 簡択力によって得られた滅。簡択とは四諦の理をさとる智慧。この智慧によって煩悩から解脱したところに顕れる空寂の真理。涅槃のこと。すなわち汚れなき智慧の力により煩悩を断ずるところに現われる無為をいう。択滅の数は煩悩の数とひとしいとされる。

非択滅無為(apratisaṃkhyā-nirodha-asaṃskṛta)

 簡択力によって得られる滅でない空寂なるもの。因と縁とを欠いて現象として生じないもの。たとえばある一つの物(色)を眼(眼識)で見るとき、他の物を見る・聞く・嗅ぐ・触るという感覚(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五識)は生じないままであることをいう。これを「縁闕不生の非択滅」という。唯識では、真如のありよう.顕れ方に応じて次の6つの無為を立てる。択力によらず、縁欠不生によって、生ずべき法が未来にとどまり生じないところに名づける。

虚空無為(ākāśa-asaṃskṛta)

 いかなるさまたげ(障礙)もない広大無辺な空間。そのなかで、もの(色)がさまたげられることなく、自由に動きまわり、増大・収縮することができる空間。虚空は実体として存在する(実有)。無礙、すなわち諸法が存在するうえにおいて障害の無いことをいい、いわば絶対空間ともいうべきものを指す。単なる隙間の空間としての虚空とは異なる〔『倶舎論』1〕。

 他の部派仏教では大衆部や一説部などが九無為説を主張する。

 

六無為

 大乗仏教の唯識派によって主張される。唯識派による無為は識変と法性とにより仮立される。六種の無為を説くけれども法性所顕の縁によりて説くのであって別体はない。

虚空無為   法性すなわち真如が障害を離れたところに現われる無為である。

択滅無為   法性の択力で汚れを滅したところに現われる無為

非択滅無為  法性の択力によらず本性清浄あるいは縁欠不生により現われる無為

不動無為   第四静慮に入り、苦楽受の滅を得したところに名づける無為

想受滅無為  非想地の滅受想定に入り、想受の滅を得したところに名づける無為

真如無為   法性が真実如常の相を有するによって名づける

 前の五無為はいずれもこの真如無為によって仮立されたものであり、真如無為も仮名であるが、その体は実有であるとされる。

 有為と無為とは説一切有部ではまったく関係なく、また唯識仏教においては、「有為無為永別」として、有為の諸法は真如たる無為法から縁起してくるものではないとされ、有為と無為とは能依所依の関係である。これは性相を決判し、「真如凝然不作諸法」と建てる法相教学からきたものである。

2021-09-20 05:25:00

束縛‼️

【束縛】

 

人は何かの教育によって、また世間の常識等の中で、こうでなければならないと言う無意識の束縛にとらわれているように思います。

人は、それぞれの個性やそれぞれの考え方と言うものがあるのですから、それが非常識に見えても、あるいは親や周囲が否定することであっても、それが反社会的でない限り、認められると言う時代に民主主義は進歩しているように思います。

 

少し前までは堂々としていられなかったLGBTQという在り方や人格であっても、その存在を認められるようになってきています。

そういう点において、私たちの生き方、考え方、そういった事柄について、何らかの概念に束縛される必要はないと思われます。

 

どうして、何らかの考え方に縛られていくのか、それが生活の糧になっていて、その考え方を失うことによって、生活の糧を失ってしまうように錯覚をしているんではないでしょうか。

 

こういう風に進化している社会背景にあって、自給自足を、事実やっている人もいるのですから、そういう束縛の中で自らを苦しめていくよりも、大空と大地のもとで自由に生きていくことを選ぶ方が、なんらかの束縛と言う大きなストレスの中で生きていくよりも意義のあることだと思っています。

 

例えば、お米ができた、お野菜ができた、と言うような純粋な喜びを生きていくことの方が、給料がもらえるのかもらえないのか、お金のためにストレスの中で人生を壊していくことよりも、人間として生まれた喜びを大いに得ることができると思っています。

 

私は、自己満足のようにこのような文章を書いているわけではなく、またこのような文章を書くことで収入になるわけでもなく、ただ自然な流れの中で私はこういった文章を書いています。

だからといって、本を出したいわけでもなく、コラムニストだとか、なんとかライターとかそんなものになりたいわけでもありません。

あえて読んでいる方のためにといった大義名分もなく、ただただ体が動いて自然にこういったことを書いています。

 

そこには何の束縛もありませんし、何の義務感もありません。

収入だって、コロナの問題の有無にかかわらず、気にした事はほぼと言っていいほど全くありません。

布教をしていた時も、お礼があまりにも多いなと思う事はよくありましたが、少ないと思った事はありません。

それは葬儀であれ、法事であれ、お布施としてしていただいているものに関して多い少ないを思うことの方が不自然だと当初から思っていたからです。

 

最澄と言う方が、道心のあるところに衣食あり、と言われていたようですが、事実、お金に困るなぁと言う経験がほぼありません。

あったらあったで、育ちそうな人に投資をして育てていったり、なかったらなかったでない中で生活をすれば良いだけであると言う生き方をしていれば、何に束縛をされることもありませんし、媚びへつらう必要もありません。

 

人生には、辛い時もありますが、それはプロセスであって、今後の生きる糧になると思って取り組んでいけば、辛いと言う思いよりも、楽しいと言う思いに転じていくことができます。

 

私もいくつかの病気(持病)と言われている症状を持っていますが、基本的に自然治癒力を持っているわけですから、それは何らかのサインであると思いながら自ら自然治癒力が出る状態に持っていけばいいだけのことです。

 

死ぬと言うことも、違う世界へ移りゆくんだなぁと思っていれば、それが極楽浄土であれ、天国であれ、自分が想い描く世界であれ、永遠性を感じながら生きていくことができるし、そこでまた違う体験ができるかもしれないと思うことによって、楽しみでもあり、死が訪れた時、それを受け入れることがそれほど苦になるとも思えません。

 

こういった風に、一つ一つの束縛を解いていくことによって、人生って結構面白いなぁって思っていけるようになります。

皆さんも、せっかくの命ですから、楽しい事を想い描きながら、束縛の糸やヒモを少しずつでもいいので解いていかれることをお勧めいたします。

2021-09-20 00:40:00

未完に居直る‼️

因果を分析した、倶舎論によれば「無為法」は因になりません。

よく「なぜ死ぬか?」それは生まれたからだ、という誤った法話を耳にします。

 

これは、無常であるから死ぬと言っているようなもので、無常が因で私という果を招くと言う事は論が通りません。

 

それは無為法である無常と言う理は、生死関係なく存在している理法からです。

 

因果論によっても、私の力に仏の増上「縁」が加わって、増上果を得ると言う因果でなければ、理法に叶わないことになってしまいます。

 

ですから、阿弥陀仏が無為法であるとするならば、阿弥陀仏から賜った信心が因になるとは言えないのです。

教行証文類の行文類に「信力増上縁」について述べられています。

 

私の自力では、悟りに至らないからといって、現世において何もしないと言うことにはなりません。

そういう観点からも親鸞と言う人は、その生涯を法蔵菩薩道として歩まれていると理解できます。

 

ただ、現世に置いて法蔵菩薩道を歩むことが難しい人に対し、本願成就文と言う根拠に置いて、念仏に身を投じる事で悟りと言う果を得ると言うストーリーが信文類に別立てしてあるのでしょう。

 

当時であれば、学問も経験がなく、論理を立てると言うこともできず、論じを理解すると言うこともできない人たちのために、この信文類があると考えなければならないでしょう。

 

当時と違い、現代の私たちは、論立てを理解することができる時機に生まれているのですから、行文類を無視して、何もしなくて良いと言う「信文類のストーリー」をそのまま持ち込むと言う事は全くナンセンスであると言わざるを得ません。

 

なぜ親鸞と言う人が、法然と言う人を超えて、観経ではなく大経を中心にされたのかと言う理由がそこにあると思わざるを得ないものなのです。

この世で何もしなかった人が、死んだら突然スーパーマンみたいには変われないでしょうから。