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2020-01-14 11:00:00

諸法無我という重要なこと‼️

【諸法無我】

sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्

 三法印・四法印の一つ。有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないことをいう。諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。

 我とは「常一主宰」のものと言われる。常とは常住、一とは単独、主宰とは支配することである。ゆえに、この「我」は常住である単独者として何かを支配するものをいう。

 インド古来の考え方は、変化するものに、主体としての変化しないものを想定した「有我論」(うがろん)である。仏教は、存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化する何者かという主体をとらえることはまちがいであると指摘する。そのような妄想された「我」に執着する執着を破るために諸法無我が説かれた。一般に有我論が説かれている最中、釈迦だけが主張した、仏教の特色である。

 これは、インド在来の実体的な「我」の存在の否定であると同時に、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。

 われわれは、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに私である実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。しかし、それこそ我執なのである。

 諸法無我は、この過った考え方をしりぞけて、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだとに説くのである。この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、恒に一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。

 一切のものには我としてとらえられるものはない。これを徹底して自己について深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えている。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるのである。

 はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。これは、絶対者の否定ではなく、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。

2020-01-14 10:09:00

武田勧学の特別講演❗️(YouTube) ©︎武田宏道

講演その1

https://youtu.be/NHzdPFnywb4

 

講演その2

https://youtu.be/AAkhT0VBS_M

ーーー

仏教は「法」についても「無我」を説き、「常一主宰(じょういつしゅさい)」の我(神のような)も認めないので、、

 

自我を「阿弥陀如来」の【摂取不捨】に《任す》ことを学ぶのであって、「阿弥陀如来」の《存在》の絶対性は語ることができません❗️

2020-01-14 01:06:00

阿弥陀如来も「無我」である‼️

「阿弥陀如来」も「無我」である。

教行証文類の「行文類」には「無生を得る」「無常を離れる」といった、

 

根本仏教の「法印」に「相応する」部分が多く、

「行文類など」には「仏教と相応する」という文言が使われています。

 

これは「念仏者が仏教と相応する」というより「念仏の教えは仏教と相応する」という意味に使っています。

 

「阿弥陀如来」を実在とし、しかも「以前の堺の和上」のように「往生の主体は《わたし》という以外にない」といった「自我往生説」を「宗乗」とし、

 

「仏教学」を「余乗」とそしり、「宗乗」は別の道(別途)であるという、、

 

「現代一般人」には??

 

となってしまうような「自己投影(わたし)の阿弥陀如来」を実体とし、、

 

「浄土」さえも「わたしのイメージを実体化した《浄土》」とする「教義理解」は、、

 

景教の影響(中国へ渡ったキリスト教の東方教会)そのものといえます。

 

日本の歴史研究でも「隠れキリシタンが真宗に多く入っていた」というものがありますが、、

 

これは、中国の「道綽、善導」あたりに端を発しているようです❗️

 

【武田勧学】の資料にある[法無我]は、仏教において重要な原点であり、

仏教である以上「三法印、四法印」なくては意味がありません❗️

2020-01-14 00:34:00

武田勧学本山報恩講の特別講義【レジュメ】

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2枚目の冒頭から解説されている「法無我」について、

「阿弥陀如来」という「法も無我」であるから、

「阿弥陀さま」といって「実在」のように扱っては「仏教ではなくなり」ます。

「阿弥陀如来」も「月を指す[指]」であり、

「月」は「無色無形絶言の真理」(無常、無我、寂静、皆苦)です。

この「四法印」を体得する「善巧方便」が阿弥陀如来です❗️

2020-01-12 16:50:00

武田勧学本山報恩講の特別講義❗️

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最近「イランとアメリカ」は一触即発です。

このように、宗教が「所有」を主張している。

「正義(justice)を主張する」ことによって。。

 

このjusticeさえも「我」といえる。

 

「仏教の根本目的は[無我]になることである」

 

無我にはいくつかの用法がある。

 

1、自分や所有を「我」と思うこと。

まさにこれが「宗教」によって「justice」ということさえも所有であり、

わたしたちは「日常的に」所有を主張している。

 

2、「わたし」という「我」。

わたしたちは「あなたとわたし」を分けて、「わたし」のテリトリーを主張する。

 

こういった「我」によってわたしたちは「苦」の中にいる。

 

「阿弥陀如来」の教えは「如来」に任すことで、

如来の生命を生きるという「無我」にそだてられていく。

 

御開山が教えてくださった「お念仏」はそういう「無我」へと誘引される教えである。

 

(武田勧学の講演より)

(わかりやすいように短くまとめたので、文章はそのままではありません)

2020年01/11

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