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2020-01-28 03:49:00

「名号さんのお仕事」は⁉️

これも「事実」から。。

 

「名号のひとりばたらき」と聞いた一般人がわたしに尋ねられました。

 

「ミョウゴウ?」とかっていう人が「ひとりで働かされている」って聞きましたが、「どんなお仕事をしておられるんですか?」と。。

 

これを聞いて、以前「阿弥陀さんの喚び声、阿弥陀さんが呼んではる」って聞きましたが、「聞こえないし、どこからどこに向かって呼んではりますのん?」「どこに行ったら聞けるんですか?」っていわれたのを思い出しました。

 

聴衆には「いろんな人がいる」けれど、「聞き慣れている人」に向けて話すのは「簡単で評判を上げるだろうが、なにも知らない人に向けて話すことをしなければ、ほんとうのお取り次ぎにはなりませんよ」。。

 

「伝言ゲームで、あなたが間違いのきっかけにならないように伝えなければ、間違った取り次ぎになって、お留守番にもならないのです」

「留守番電話の方がよほど留守番になると思いませんか」と、

 

若い頃に「ある和上」からいわれたことがあります。

 

わたし自身「名号」ということばを、はじめて聞いたときに「漢字」がわからず、「妙ごう?」。。

「ごう」はどう書くのだろうと思ったのを思い出します。

 

皆さんは「スピリチュアル」ということばを「どういう意味」だと思いますか?

「精神」「霊魂」「神秘」などいろいろなイメージがあるでしょう。

 

英語的には「精神」がもっとも近いでしょう。

「メンタル、マインド、ソウル、スピリチュアル」みな似たような意味になりますが、「霊魂」というと、真宗のひとは「嫌悪感」を持つようです。

 

「霊」という文言は「報恩講私記」に「南無帰命頂礼尊重讃嘆祖師聖霊」と何度も出てきますが、ここを無視しますか?

 

「霊」という文字は「真宗関係の著書に頻発しています」が、、

いつからなのでしょう。

「霊を使わない」となって「嫌悪感」さえ抱くようになったのは。。

 

《「霊」ということばの意味を明確にすれば良いだけなのに。。》

 

「僧侶の常識は、門徒さんの常識と一致しない」という前提で布教をすることが求められるという「基本」を忘れてはいけない。。

 

改めてそんなことを感じています❗️

2020-01-28 03:48:00

女性と法名‼️

「釋妙恵」ありそうな法名です。

ただ「真宗」では「妙」の文字を「女性」につける習慣があります。

 

「妙」は「不思議、巧み」といった意味があるから文字としては問題ないハズなのですが、、

 

以前「妙は女が少ない」と書くから「変成男子」(男性に生まれ変わる)を意味して「女性につけるんです」と聞いたことがあります。

 

これは「ナンセンス」だとは思いつつも、「むかしの語呂合わせ好き日本人」なら歴史的にそういうことも「さもありなん」と思います。

 

以前の「ジェンダー問題」で西本願寺は「本山からもらう法名」は、「釋尼〇〇」の「尼」をつけなくなりました。

 

「住職がつけるときは《基本的に住職の判断》に委ねられています」が。。

 

こういったことを、みなさんはどう思われますか?

2020-01-27 01:27:00

ホンモノって⁉️

ホンモノの絹を見たことがないひとに「ホンモノ」はわからない。。

ホンモノの「ダイヤ」をつけていても「ガラス玉」に見えるひとがいる。

「ガラス玉」をつけているのに「ホンモノのダイヤ」に見える人がいる。

 

「ホンモノ」のルイヴィトンを持っている人は「ホンモノのひと」なのだろうか?

 

「ホンモノ」ってなんだろうか?

 

人間種に生まれた以上「その存在理由や価値を高めていくひと」だと学んだ。

 

皆さんは、ルイヴィトンやダイヤを身につけて、「セレブを気取っているひと」を「そういうひと」だと思うだろうか?

そういうひとを「リスペクト」できるだろうか。。

 

「人間種の存在理由や価値」は「知性と感性を高め」「整然と落ち着いて」「筋が通っている」そういったひとであろう。

 

まとめれば《精神的レベルを高める意識を持ち、理性的解析(理解)をもった人間関係を築いていけて、地球を大事にできるひと》といえるだろう‼️

 

もちろん「人間関係がうまくない」と思えるようなひとが、必ずしも「そういうひと」ということではない。。

 

ここに書いたようなひとだと「見抜けるように深い理解をする努力をすること」もまた重要であろう!

 

どんな「生き方」にも、このような根底がなければ、「ホンモノ」といえないのではないか。。

ある「グループ」の友愛的人間関係から学んだことである❣️

2020-01-25 04:39:00

南無阿弥陀仏だけじゃない‼️

これほど「世界が近くなり」「情報も多い世の中」に於いて、

「阿弥陀如来」という「表現」以上にその根源に教えられていることを分析して、多くの「精神主義」に訴えかける方法論が必要な時代である。

 

そういう意味で「最近」わたしは「阿弥陀如来」という文言をあえて避けている。

 

とはいえその文言に意味がないともいえず、「南無阿弥陀仏」という称名はしているが、「これには生命の根源と無色無形絶言の功能を意味して使っている」つまり「智慧と慈悲」であるが、この世界的に情報が多く紹介されている時代にあえて「南無阿弥陀仏」であらねばならない必要があるとはいえず、

 

かえって「南無阿弥陀仏」を避ける傾向も見られるから、状況によって「他の文言に置き換えている」。。

 

親鸞の教えにおいて「入門は阿弥陀の門」であっても「出門」して「自由に教化する以上」こういったことが重要な入門者を増やすきっかけになると実感している‼️

2020-01-25 01:42:00

誤解と理解‼️

人間関係のトラブルは、「誤解」によるものが(極論で言うと)90%であると言う説がある。

 

人間関係において重要なことは「理解と誤解」を正確に知ろうとすることである。

 

《理解は共感である》

 

「共感」は「同情」とは違う。

「同情」は「相手の思いに乗っかること」であり、

「わたしもそうなんよ」というやりとりである。

 

《理解は相手の思いを知り解るのみ》であり、

自分の思いとは異なるということが[大前提]である。

 

相手の気持ちの背景や状況から「どういう気持ち」になっているかを「解る(理性的解析をする)」ことである。

 

「誤解」は「誤った解析」であり、あえて説明は不要であろう。

 

この「誤解」が、昨今の「メールやSNSのやりとり」では起こりやすい。

「文字」しかも手書きでもない「フォント」で表現され、

「スタンプ」や「顔文字」「(笑)」と書かれていても、それ以上のニュアンスを解析して理解することは難しい。

 

「事務的なやりとり」や「詳しいこと」は「お会いして。。」が前提ならばまだしも、「気持ちまでを理解せよ」というのは至難である。

 

「直接会って話しても理解は難しい」ものである。

 

とくに日本人は「共感(理解)」をするクセがない。

 

自分の思いをわからせようとする《指導的関わり》か、

相手の思いに「巻き込まれる」「乗っかる」いわゆる《同情的関わり》という2パターンがほとんどな「国民性」である。

 

「わかってほしい」は「同じ思いだと言ってほしい」のか「理解(理性的解析)を求めている」のか?

 

「わかってあげる」もいずれを言っているのか?

 

「理解」を意味していれば、適切に「人間関係」は構築できる。

 

《和合》のために必要なのは「誤解をしているかされているか」「理解をしているかされているか」ということを互いに意識して関わっていくことであろうといえるだろう‼️

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