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2020-01-09 03:11:00
一神教と多神教そして仏教‼️
一神教には「論」がある。
多神教は「現象」を見ているだけといえるから、論より「情的」である。
一神教には「現象の背景を観る」という観点があるからである。
「どんな現象にも意味や理由がある」という観点から、、
その「意味や理由」を思考するモチベーションがあるといえる。
多神教は、「風や雷」「菅原道真、徳川家康」といった「個々の現象やひと」また「善の神、悪の神」という「パーツ」で見ている。
一神教は「パーツ」に整然とした「総合的な意味」を与える。
ユングの「コンステレーション」である。
そういう意味において、「一神教」においては「神に意味や理由を問う」という「祈り」があり、「多神教」においては「それはない」か、そういうモチベーションは起こらない。
「ユダヤ教やキリスト教」においても、「サタン」も神の部分であって、「別物」ではない。
神は「善神」、サタンは「悪神」ではない。
神は「神自身に似せた人間を生み」サタンはその人間を神に向ける「背神の天使」である。
これさえも神によって「敢えてサタンはその状態に置かれている」と考えられるからでもある。
つまり「一神教」においては、全てが神の[一](イチ)に帰結するのである。
そこには「物語のようなバイブルに包含される[論]がある」といえる。
だから「人間は人間自身も神の中にある」と「信仰」して「人生を神に委ねる祈り」を日常的にする。
この状態は「仏教の無我(非我 )」に似ている。
「仏に委ねる[信]」には、[自我滅=無我(非我 )]がある。
他力本願は、しばしば誤用されるが、「本願他力」という用法が「親鸞」にはあるけれど、、
「他力による本願」とも読める上、「本願という他力」とも読める。
そこで、教行証文類には「他力というのは如来(仏)の願いによるベクトルである」という意味の記述があるが、、
ここで「阿弥陀如来や阿弥陀仏」が主語ではない。
あくまでも「如来」である。
このポイントを見ると「如来=仏性」ということも「証文類」などから可能であり、「一切衆生」も「悉有」も「仏性」であるといえるため、、
教行証文類において、すべては「華厳原則」の「一=一切」という「法界縁起論」で説明されている。
つまり親鸞は「すべては一即一切」であるから、「如来に委ねること」を論じ、それは全てが「そもそも仏性」であるからという「一神教」の論をさらに深めたような「複雑」な論である。
この複雑な論は、じつは至って簡単であり、
すべては「神」ではなく「真理、真如そのもの」であるということに「包含される」のであり、、
「神さえも真理真如一如の中」という「論」である。
ただこれは「西洋の論理学」と「インド仏教の論理学の違い」であって、
「西洋的」に言えば、「プロビデンス」という「真理=神」という定義がされる論や、、
「神」が「真理を生んだ」という「前後次第によって位置付けが変わっていても」結果「神に委ねる」も「真理に委ねる」も同じことだといえる。
但しこのような論は「識字率が低く、高等教育のなかった時代のひとに向けた物語的な表現である」ということは、「教行証文類」があらわしていることも「バイブル」も同じである。
いずれにしろ「委ねる」「受け入れる」「任せる」「信を得る」といった[こと]から、「自我滅」をして「如(ありのまま)」を「自然に生きるようになる」という結果において符号するのである。
大乗仏教では「経典」→「論書」→「解釈」(釈)の順に、理解を得るというけれど、これは、「経典の物語」→「物語の背景にある論」→「それらの解釈」によって、「経典の物語を、現実に則して生きることが可能になる」という流れであろう。
いずれにせよ「論のない多神教のような教え」と「論を背景に持つ一神教のような教え」では、大きな違いがあり、、
こういうポイントをわからないひとが増えているために、、
人間が「どんどん人間教や倫理教、資本主義教やテクノロジー教」に委ねてしまっており、、
近い将来「アンドロイドが人間を脅かす」ということになっていくかもしれないし、、
DNAそのものから「遺伝子組み換え人間」を生み出すことにもなるであろう。
こういった現代は「資本主義」が「資本主義によって生み出したシステムやテクノロジー」によって「自己崩壊に向かっている」といえる!
やはり「すぐれた精神世界を説く教え」こそが人間にとって重要かつ有益であるから、、
現代人は、そういう教えに「自我滅」つまり「自我を聖なる世界観に委ねて、自然の中を無我(非我 )に生きる」という「人間のあり方」を「取り戻すこと」が、最も必要な時代に入っているようである‼️
2020-01-07 02:19:00
お話し⁉️
「お話しと論」を、きっちり仕分けて「学ぶ、教える、話す」ようにしなければ、「学問」といいつつ「物語り」を学んだり、、
「お話し」といっても「論」だったりします。
布教使という立場において、「いま」論じているのか、お話しをしているのか、「聴衆はどちらを聞きたい」のか、、
といったことを「考えてお話しする必要がある時代」だと思っています。。
2020-01-07 02:15:00
倶舎学という「総合テキスト」❗️
昨日の「時間論」は、「倶舎学」(くしゃがく)によるものですが、
仏教学において「唯識3年、倶舎8年」といわれています。
これは、それだけ難しいというよりも、「倶舎学」がカバーしている内容が、今でいうなら「大学のほとんどの学部」といっていいほど広く深いということだと思います。
もともと、その時代ですから、「地球」という概念はなく、「須弥山説」という概念で、宇宙などを論じています。
たとえば、日本で「本州、四州、九州」などというのは「須弥山説」で人間の住むエリアを「贍部洲(せんぶしゅう)」と書かれていることからの影響ではないかと思います。
「倶舎学」には、古代インドや仏教の「天文学、生物学、人間学、心理学、物理学、化学」といった学門の総合テキストのような内容が論じられていますが、現代の学問に照らしても遜色はない内容です。
そういう意味でも、「奈良仏教」において、本来は「倶舎[宗]」ではなく「倶舎[衆]」だったり「法相衆」や「華厳衆」だったりという「学問仏教」だったのです。(南都六宗といいます)
このように「日本の仏教」が「平安時代」に「最澄、空海」の「平安仏教」が主流になるまでは、「奈良仏教は大学」のような状況だったのです。
「平安仏教」でも、「最澄」は「国宝人材である」といい、「良き人材育成の場」として「比叡山」を運営していましたが、、
「空海」の「密教」に影響されて、「その存在意義」を変えてしまい、、
「公家や民衆のニーズにそのまま応える場」に変化させていきました。。
これが「あまりにも[煩悩増長ニーズ]だったため」といっていいのか、、
平安仏教は「間違っているのではないか?」という人たちによって、
「鎌倉仏教」が生まれたのです。
その先駆けが「法然」「親鸞」「道元」「日蓮」といった祖師方なのです。
日本の仏教は「もともと学問仏教」つまり「教育の場」という性質が強かったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/須弥山#/media/ファイル:Shumisen.jpg
2020-01-06 16:51:00
未来法を現在させる❣️
大経や仏教に多くの経典における時間論には、
「過去、未来、現在」の次第で時間を表現されています。
「過未現」や「去、来、現」ともあります。
つまり、「いまといった瞬時」に「刹那に過ぎ去る時間にある心の状態」に似た、「未来(未だ来ず)」から、多くの「法」が来ます。
そのなかで「いま」と同じタイプの「未来」を「刹那に選び取る」と、
「同じことの繰り返し」という「ルーティン」を巡ることになります。
そこで「いま」と性質が異なる「悟りに向かうであろう未来法を選ぶ」ことで、「現在する法(現実)」が変わります。
だから「未来にさとり(浄土へ至る)」と過去法から《現在》する「未来法を選ぶ」のです。
すると「現実において自然がさとりへの未来法を選ぶ」ようになって、「同じことの繰り返し」という「ルーティン」から脱出できます。
一般社会で「思考は現実化する」などというのと同じです。
「浄土や悟りの法を選び取ること」ができるようになれば、
「未来」から「現在」する法が変化して、
ほんとうに「さとり」への「道をあゆむ者」になります‼️
時間の解釈でここまで人生が大きく変わることになるので、
「愚かなルーティンを繰り返す過去法」を捨てて、「さとりへの望むべき未来をみいだす未来(未だ来ず)が現に在する(現在)を得ることが可能」になります❣️