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2020-01-24 03:06:00
愛別離[悲]‼️
愛別離苦は、愛別離悲といえる。
苦というよりも情的であろう。
人間でなくとも「哺乳類」は「泣く」という。。
「苦」は「知性」によって解決できることも多い。
「悲」は「情的」であるから「インパクト強く残り引きづる」といえるだろう。
案ずるに、人間種の「苦」に「知性により解決可能な苦」と「情的な苦」そして「知と情が絡んだ《悲》」があるといえよう。
この「悲」をサンスクリット語では「カルナー(うめき)」という。
そしてこの呻き(うめき)を埋めるのは「慈」(マイトリー=親友)とされている。
「親友」には「パワーバランス」がない。
また「見返りを求めること」もない。
《無条件の摂取不捨である》
《そこには「和合」のみある》
「和合」は「わかりあい、受け止め合う」まさに「無色無形絶言」の関係である。(色も形もなくことばも絶えてあらわすこともできない関係性)
「愛別離悲」いわんや「生老病死の悲」を埋める「慈悲」をもって関わることができる「和合関係を広めるもの」になることこそ、「大乗菩薩道の行者」である。
ここにおいて「怨憎会、求不得、五蘊盛の苦」については、内容によって「悲」とはいいがたいものもあると思えるけれど。。
「心の奥には《悲》がある」といえるだろう‼️
2020-01-23 04:01:00
スピリチュアル‼️
人間の精神について。
英語で「精神的な」を意味することばが「Spiritual」です。
人間の精神はなぜ「愛や慈悲」を与えたり求めようとするのか?
宇宙に「人格的意思はない」としても、
「なぜ驚くようなシステム」をもって存在し、
そこに「愛や慈悲を生きようとする人間」がいるのか。
現代の若者が「愛や慈悲」を求めていないように見えるけれど、
なぜ「寂しさや孤独感」に苛まれるのか。
「無知無明」が「人間」を含めて、「愛や慈悲」のシステムを破壊してきた背景で、宇宙的叡智といってもいい「智慧と知性がひとを救うスピリット」を育ててきたのはなぜか?
「有機物で作られた陶器や木工品」「アートや科学的発見」などが、
「無機質な樹脂の入れ物や家具」「失われた感性やひらめき」などに囲まれるようになって、そういった能力を人間が失いつつあるようで、
じつは「そういった有機的物質にぬくもりを感じようとしている」スピリットが精神の深いところでは求めているのはなぜか?
わたしたち人間は、「GodやBuddha」を存在として知る必要はなく、
「人間のこころやスピリチュアルを満足させる法則」として探究し、
その得たところを「愛や慈悲」として施すことに、
《宇宙の有機的かつ叡智》を生きるという最高の領域があると知るべきであろう。
高次元な宗教は「身近でありかつ全宇宙的な《知性と慈愛の根源》を等しく教えている」のであるから、セクトを超えてその根源の部分から協力し合う時代である。
2020-01-23 01:54:00
宇宙的叡智‼️
意思と感情を持ったアンドロイドを作れるという。
「完璧に人間を超えるようなアンドロイド」を作ったとき、
「人間は神になる」
そのアンドロイドが、人間に背き出したとき、
「アンドロイドは原罪を作る」
逆にたどってみよう。
「神が人間を創造した」という。
バイブル的には「そこまで」であるが、あくまでも「仮に」、、
「神を作った神がいる」として、、
その「神を作った神がいる。。」というと果てしなくさかのぼる!
これを仏教の「空の教え」に当てはめると、
「一切は空」であるが、「仮有」であるから「非空」であり、
「非空」は「空」であるから「非非空」である。。
とこれまた果てしなく続く。。
つまり「God」であれ「Buddha」であれ、
人間は「果てしなく不確定な認識しかできない」ということである!
量子力学の「不確定性原理」は、そういう意味でも正しい。
量子の動きを「正確に確定できない」ということも同じである。
「我(ga)」という言葉は、「なんらかの状態や物事を確定すること」であるから、
「これが正義」というのも「我」である。
しかし「不確定」ということは「無我」または「非我」ということである。
それ故に、「どう意味付けるか」「どういう理由を思考するか」は正しさ基準ではなく、
「人間」として「知性が多数の感性に歓喜を与えること」を追求することが、「幸福感を生きる」ことだといえそうである。
またウラを返せば「傷つけない」「負の感性を作らない」ということでもある。
「慈悲や愛」という一切の生命への「プレゼント」である。
人間としての存在意味は「そこ」にあり、人間をそこに導くのが「God,Buddha」であるといえよう。
「神や仏という存在は、宇宙的叡智である」といえる‼️
2020-01-22 15:18:00
人とは‼️
「アビダルマ」では、六道における人間を「思慮分別するをもって人とす」といわれています。
ここで、智慧をもって「真智無分別智」によって「思慮分別」を自然に任せて生きれば、「自然の本願」を生きる「弱肉強食」ではない、真の人間になります。
そして「仏界」を目指して、蜎飛蠕動をも生命と「慈悲」れるようになるのです。
往生要集にでてくる「人界」は「不浄、苦、無常に恐る」という様相ですが、
根本仏教的には「人界は真智無分別智」を生きるものになる道を歩む者となります。(阿羅漢果への生命、大乗菩薩道→法蔵菩薩道)
つまり、人界は「弱肉強食」ではなく、「人」には「智慧と慈悲」で「利他る」責務があるということでしょう。
仏教者は、世俗に埋没して、世俗とともに「崩壊」してはならないのです‼️
わたしは「政治に関与」する気はありませんが、「高次元の宗教者」として、
先の投稿で「別のパラレルワールド」でなら可能になりそうな「国のあり方」を書いたのです‼️
少しでも「政治家の誰かが読み」参考にされることを願って。。