インフォメーション(日々更新中)

2020-03-07 01:39:00

親の十字架‼️

上司が部下と会社のなかですれ違った。

上司は部下に「なんで挨拶しないんだ!」と叱った。

部下は「考え事をしていました。」という。

 

上司は「考え事をしていようが、上司とすれ違ったら挨拶をしないと、これがお客様ならどうするんだ!」とまた叱る。

 

これが「儒教」である。

「挨拶されて当たり前と思っているのに、挨拶しないことを不快に思っている」「そしてそれをお客様にすり替えて叱る」というアホな常識とテクニックにあぐらをかいている。

 

このような上司は「無能」なのだ。

こういう時、すれ違った部下に「どうしたんだ思いつめた表情をしているね❣️」と上司がいう。

 

そして部下が「考え事をしていまして。。」といったら、上司は「何かあればいつでも言ってきなさいね❣️」といえば、

部下は「信用する」であろう。

 

このような上司がいれば「人材育成」が自然にされる。

儒教上司は「部下を潰すだけ」なのだ。

 

こんなことは「親孝行」ということにもいえる。

「親は生涯子どもを案じる十字架を背負っていて、親孝行を期待してはならない」というのが鉄則である。

 

「親孝行をしてる余裕がないほど子どもは生きることに必死なんだ」と思うのがトーゼンであろう。

 

なんせ「愚かな上司に仕えている人がほとんど」なのだから‼️

2020-03-06 18:43:00

恐慌になっても❣️

オリンピック問題から「セーフティネット」の貸し倒れ❗️

預金回収殺到、衆議院解散総選挙、ハッキングによる各所の機能不全などなど。。

 

どうぞ慌てられませんように、その時のために準備はしてあります。

 

たとえ恐慌のようになろうとも、最悪どうにでもなるように、

友人とシステムを作っています。

 

というか友人が作っているものに関係しているという方が正確です😁

 

またわたしも「独自の生き方」を提供できます❣️

 

円が紙切れになっても、銀行がハッキングされても問題ありません。

 

どうぞ慌てないように、脳がパニックになることは最悪ですから❣️

2020-03-05 20:27:00

パニックは避けるべし‼️

今月のほとんどの仕事が「中止になった」けれど、

いい加減日本人は「国家への愚痴」や「パニック」になるのを見直す方が良い。

 

たとえ「銀行がどうなろうとも」国家はなにかしてくれる。

これだけ「時代が変わった」のに、トイレットペーパーを買いあさる必要もない。

 

なにが起こっても「恐れる必要はない」成り行きを静観せよ!

トイレットペーパーはご近所で借りたらいい。

 

コンビニのトイレかどこか行けばいい。

手で拭いて「シャワーで流せばいい」から。

 

野生に戻ろう❗️

 

「日本人が強くなる、文明に頼らない」

「平成生まれが昭和を知る」

 

いい機会である。

 

なにがあってもパニックは最悪である。

「冷静であれ‼️」

2020-03-05 03:13:00

経営努力‼️

アメリカで資本家は「何のために起業するのか」。。

もちろんその業を成長させるためということもある。

 

ただ「大きく違う」のは、その会社を成長させて「高く売る」、

または「経営が下手なためにうまくいっていない会社を合併させて巨大化して売る」といったことを繰り返して、

自己の資本を増やすのである。

 

ただしこれが日本でうまくいかないのは「解雇しにくいルールの縛り」があるからである。

「経営改善」には「解雇もやむおえない」こともある。

しかし日本ではそれが「ペナルティ」になるのである。

 

わたしはこのことを問題にしているのではない。

 

アメリカは採用までの教育の土台がそもそも違っていて、このことが前提だから、

子どもの教育内容がまったく違う。

 

日本において、なぜ国力が弱まっているのか。

それは教育や「職場での人材育成」ができていないという観点を重視しないということをここで問いたいのである。

 

「解雇の前に育成がまったくない」「育成はどこぞのくだらない研修任せ」にしているというのは、

経営陣が「教育育成」できないということである。

 

昨日書いたような「店長が悩む」という状況は、店長を教育育成できていないという企業のレベルが知れてしまう。

あのような状態の会社を買いたいという投資家は、アメリカにもいないであろう。

 

企業が自社がアメリカの投資家に売れるかどうかを基準に「経営努力」をすることが望まれる。

 

コロナ倒産を防ぐ、セーフティネットが貸し倒れにならないように、経営支援をする「銀行や商工会議所」などの職員自体がそのような判断力を持たなければ成長はないだろう。

 

もし日本がこのままの流れで経済危機になったとしても、慌てなくても日本国家は対応をする体制を持っているが、

このような状態で「不要なパニック」にならないように、人材育成は急務であると思う。

 

念のために「日本国家の良さ」は「解雇しにくいルールで雇用は守られており、会社の倒産も守られていること」である。

経営者がそこに甘んじたら終わるだろうけれど、「経営者がそういうセーフティな情報」に敏感になって、

その支えの中で、「企業努力」そのカナメは人材育成だと理解して、「システム(仕組み)とヒューマン」を構築し推進していくことである。

 

これは宗教教団にもいえることであろう。

2020-03-03 22:13:00

店長の苦悩。。😭

今日、広告にほだされた友人と近隣の「イタリアンレストラン」に行った。

「広告と実態があまりにも違う」とわたしは思った。

 

わたしはその時点で「広告と実態が違いすぎる」と

「店長に指摘した」けれど、

 

店内の座席数と顧客単価を見て、

ざっくり見込みの1日の「売り上げ」を計算して、

 

食品原価を18%、地代、水道光熱費、ぱっと見たところの「従業員数」などから、

「月間給与」などのコストを弾き出し、

 

売り上げ−コスト=粗利益を、25日計算で割り出した。

 

そして、この店が近隣で数店舗やっているのを知っていたので、

スマホを使って、本社を調べ、本社の社長を調べたところ、

「取締役社長」だったので、「雇われ社長」だと認識した。

 

このような場合、「代表取締役」でないということは、

銀行借入するにしても、連帯保証人にはなるけれど、

債務者にはならない。

 

だから「雇われ社長」であると判断できる。

 

また「会社概要」を見て、

この店は「FC」であるとわかったが、

10年経っても店舗数が増えていないから、

 

「FC」に負担を強いていると認識した。

 

つまり、「食材の仕入れ」も本社から「高く仕入れさせられて」

「厨房機材」なども「本社のリース」になっていて、

おまけに「ロイヤリティ」を払っている。

といったことを意味する。

 

そして「シェフ」でもある「店長」が必ず「お会計」をしている。

これは、「従業員に任せて、うち引きをされたことがある」ということなのだろう。

「うち引き」は「従業員が万引きやレジのお金を盗むこと」をいう。

 

胸の名札に「トレーナー」と書かれた「従業員」がいたけれど、

モチベーションは低そうであった。

 

本社の従業員募集広告に「パテシエ募集、時給900円」ってあるけれど、

パテシエを「バイト」で入れてなにをしたいのか?

あまりにも「バカらしくて」本社も「迷走している」のもわかる。

 

そこで改めて店長に「粗利益はこのぐらいありますか?」

「確認ですけど、こちらはFCですか?」と尋ねたら、

 

「粗利益はそんなにないです」「FCです」という。

「じゃああなたはFCオーナーですか?」と聞いた。

「いえわたしはただの店長です」という。

 

そこで「じゃあ仕入れやリースを本社から強いられて大変でしょう」といった。

店長は、「おっしゃる通りです」という。

 

わたしは「じゃあ店長さん、本社から追われ、FCオーナーからも追われ、従業員は横着して、大変でしょう」といった。

店長は「そうなんです。ありがとうございます😭」といい、

「わかってくれるひとがいた」という状況になった。

 

そもそも「この店は以前に何度か来たことがある」けれど、

この不景気に「客単価」が高いシステムになっていて、

 

夜でも最低一人4,000円からなのである。

 

どんどん「外から見ても客が減ってきているのは見ていた」から、

システムを変えないとこのままでは「倒れる」と思っていた。

 

そして「本社の経営努力」がされていないのもわかる。

「雇われ社長」は「FCに負担を強いて怠けている」と観える。

 

そこで店長が、「もっとも苦しい位置にいる」というのが手にとるようにわかった。

 

わたしは、助けてほしいと思ったら言ってね!

といって、助け舟を出して帰った。

 

友人は「スマホ」をいじったり、紙ナプキンに数字を書いているわたしに、

「何してるのか?」と聞いたので、「あなたはうまいうまいと食べといたらいいから。。」といった。

 

このような場合、わたしは「店長とFCオーナーの間」に入ると、全社を挙げて経営改善はできる。

しかしいまわたしは「とくに自分からそこに入る必要もなく、仕事を増やす気もない」から、

「積極的アプローチはしなかった」けれど、

 

ここで「助け舟に乗りたい」と店長が申し出てきたら、お手伝いをするつもりである。

 

同じ場所にいて「観るところが違う」という「次元が違う」というのは、こういったことであろう。

「利他を行じる」ということは「世俗を知る努力」が前提である。

 

みんな、なにに困っていて、どこをどうすれば良いかを知ることである。

 

「仏道」は世俗の次元を変えて観るところにある。

「観察」「止観」はそこまでいかなければ、「自己満足」で終わり、

「さとり」も意味をなさないと言えるのではないだろうか。

 

僧侶は「檀家(門徒)さん」が何に困っていて、どうアプローチしたらいいかという「智慧」を持たなければ不要になる。

このような「具体的なこと」がわからなくても、「困っていることを世俗のありさま」として「聞く」ことである。

 

「わかってくれるひとがいる」というだけでも充分なのだから。。

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