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2020-08-21 02:51:00

お話しの前に「ブツブツ」言っているのはなに?

【最近の布教使さまへ】

御讃題についての問いから‼️

 

布教の前に読む言葉。。

これは「御讃題」といい、もともと讃嘆の意味で「経典、七祖、宗祖の文言」に限定して読まれていました。

 

けれど、「人間うけがたし今すでに受く。。」を読んでいた布教使が多かったものです。

 

そして、和讃は一首全文を基本的に読むので、最後に「とー」はつけません。

長文の途中で区切って読み終わるときには、、

 

「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船」だけで終わるような場合には、「大船と〜」って終わるように指導されていました。

これは「大船等々」ということです。

 

「と言われます」という意味での「と〜」ではないと聞いています。

 

またわたしは「昭和64年(平成元年)」に布教使を取りましたが、

その頃は「豊島学由さんが主任講師」でした。

 

その頃までは、フホウ輪袈裟が主流で「雪洞(ぼんぼり」と「布教用二連珠」でしたが、、

 

その数年後「註釈版」ができて、キリスト教のように、註釈版をうやうやしくもって出て、

「いまから話す内容の部分を読む」ということ「黒衣輪袈裟で普通の中啓と法要で使うフサのある半装束の二連珠」が基本で、「報恩講では桐袴をはく」と決められました。

 

そこで「話の内容によって、註釈版を開いて読む」ということに変わったので、

複数回の法話では「その度に違う文章(御讃題)を読むこと」になりました。

 

そこで、過去は認められなかった「歎異抄」や「御文章」「生活信条」などを読む人が出てきて、「経典、七祖、宗祖原則」が忘れられてきました。

 

そして「ありがたく読む」ために「静かに読むこと」が伝統のように錯覚し、

「ブツブツ」読む人が多いのです。

 

わたしは「古式」にこだわっているので、スタイルを変えません。

2020-08-21 02:47:00

もっと端的に「行じる」をいえば。。

一般のひとに「行じることをどういえばいいか?」という質問から。。

 

もっと端的に「行じる」を具体的にいえば、

 

「あなたが助けたいと自然に思う気持ちに従ってひとと関わって、自然に助ける気持ちが生まれれば、そう思うようにすればいい」「見返りや代償を求めない」ということです。

 

こういう気持ちでひとと関わらないから、泣いているひとがいても「無視してしまう」「泣いているひとに気づけない」「自分のことしか考えない」という「世俗となんら変わらないこころ」になってしまうけれど、「智慧慈悲心」を念頭において生きていれば、「そういう自然の思い」が浮かんでくるということです。

 

「お金のこと」ばかり念頭におくから、「行じられない」「精神的向上ができない」のです。

2020-08-20 22:36:00

「行じる」って?

「行じる」とは。。

 

「無私の心で智慧のまなこで、一切を観るようにして、呻く(うめく)いのちに親友のような対等目線で慈悲を施すこと」

 

言い換えると、、

 

「無私の自己と相手が教えにより高次元に導かれていくための自然の慈悲行為」これを繰り返すことで自他が「一如(和合)の高次元に向かう」ということで、

 

その高次元の教えが「阿弥陀モデル」の「すべてを摂取不捨」するものであり、自他が阿弥陀になって行く意思と行為ということだと「法蔵菩薩のストーリー」が教えているのです。

 

事例)

 

「あいつがこういったから、こう言い返した」は、

→←の直線(1次元)

 

そこで「相手の気持ちや背景を見てみましょう」と横から見ると、

相手は「仕事などのストレスで言い方がキツくなってるのではないか」という、

2次元になる。

 

そして「相手の背景と自分の背景」を考えてみると、

「わたしもいろいろあって過敏になっているなぁ」と俯瞰すれば、

3次元になる。。

 

このような観察が仏の目線を学ぶことで「他利利他」の四十八願モデルを生きることにある。

 

これが「(法蔵)菩薩の行に定義された五念門五果門」になります。

 

 

すべてにおいて自が無い「他力(縁力)」だと「自然法爾」に近づいて行く「無私の智慧慈悲心がより高次元になって自行が化他」になる「和合」を目指す意思と行為に「いのち」が生きること!

 

といえます。

2020-08-20 21:04:00

最期の石泉‼️

【最期の石泉学派】

 

石泉の「大江先生から灘本先生」の流れにおいて、「行は称名か名号か」ではなくて、

 

あくまでも「称無碍光如来名」という五念門の「讃嘆門」に由来していて、これが「諸仏の称名讃嘆」を根拠としていて、五果門の「大会衆」(多くの人が集まる)という利他になるという解釈になっているようで、

 

石泉といえば「行は称名」という単純な解釈から、あくまでも「浄土論」の「世尊我一心」の「帰命尽十方無碍光如来」をすわりとして、五念門五果門に広がるという解釈に転じられました。

 

この通り、親鸞聖人において、善導さんの「五正行」から、天親曇鸞の「五念門五果門」の入出二門が中心になっています。

 

つまり「大行」は讃嘆門(広讃、略讃)を中心にした「利他を行じること」と理解できて、「自然の法」を生きることとなります。

 

これが「石泉最期の勧学さん」の解釈です。

 

わけのわからない「真宗には行はありません」なんていう無意味な教えではないという「簡単かつ真の菩薩行者になる教え」なのに。。

2020-08-20 21:04:00

名前❣️

親鸞さんのすわりとは、その名前の変遷からもわかるのではないでしょうか。。

 

「綽空→善信→親鸞」という七祖に由来する名前のなかで、

最終的に「天親と曇鸞」から「親鸞」になったというすわりを表現しているように思います!

 

そのすわりを蓮如さんが善導さんにして、信心大事にしてしまったのです!

「教行証文類を教行信証」にしてしまったのです❗️

 

そして「親鸞さんの立ち位置」を「行信相対」として、

蓮如さんが「信心ばかりを大事」にしたんです。。

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