インフォメーション(日々更新中)

2021-10-27 05:35:00

架空の人物‼️

【架空の人物が別の架空の人物から聞いた中で最悪のアドバイスは何ですか?】

 

およそ人が誰かを見て評価をしたとしても、それがあなたの主観が入っていないとも言えず、様々な人の意見の中で間違った人物像をその人そのものだと考えてしまうのは根本的に認識論から言えばミスを犯しています。例えば、坂本龍馬がすごいと思っていた人が、坂本龍馬のバックにグラバーと言う西洋の人の援助や支援があったからできたことだとその歴史の人物への知識が増えることによって、見方が変わってきます。

つまり、徳川家康だろうが、安倍総理であろうが、認識に限界がある以上、すべての人物像は根本的に架空の人物であるといえます。今、世界的にはヒトラーもそんなに悪人ではなかったと言うような報道が、CSのナショジオTVなどで盛んに放映されていますが、それまでに意図的に擦り込まれた人物像が情報を得ることによって変化する事は常に起こっています。そういった歴史に名を残しているから架空ではないと言う事は実は誤りであると言うことがいえます。そういう観点で人を見れば、自分自身のこともどれだけ理解できているかと言う根本的な問題にぶち当たります。

ですから、そもそもまずお尋ねの架空の人物と言うことを定義できないといえます。聖徳太子も最近は架空の人物であると言われています。ご参考になさってください。

2021-10-27 05:34:00

親鸞会‼️

私たち人間は、煩悩だらけなので、仏の悟りの世界を知る事はできない。なので私たちが自力で悟ると言う事は無理であると言える。

そういう私たちに向けて、阿弥陀如来は煩悩だらけの私たちを悟りの世界へ導くと誓願された。

私たちが、悟りの世界を認識することができない以上、阿弥陀如来も極楽浄土も人間には理解できないのが当然である。

しかし、このような煩悩にまみれた私を救う阿弥陀如来の救いを受け入れることによって、来世において極楽浄土で悟りを得ることができると親鸞聖人と言う方が明確にされている。

では、本当にそれで悟りに導かれるかどうかと言うことすら阿弥陀如来の救いに任せる以外に方法は無いと言える。

なので、阿弥陀如来の救いを信じる信心をいただきなさいと親鸞聖人や蓮如上人が私たちに教えてくださっている。

煩悩によって修行も何もかも出来ず、真実を知ることができない私であるから、この教えに従って極楽浄土に生まれて、悟りを得ると言う真実の言葉によるしか道は無い。

私たちの人生の目的や生まれた意義は、地獄へこのままなら落ちてしまう私たちが、阿弥陀如来の真実を受け入れる信心によって、救われる以外に方法は無いのです。

そのために、私たちがどれだけ愚かな凡夫凡人であるかと言うことに目覚め、そういう私たちを目当てとして救ってくださる阿弥陀如来の信心を生きる以外に方法は無いのです。

皆さんも、自分の煩悩の深さに思いを向けて、阿弥陀如来のお慈悲の深さを受け入れつつ日々を浄土往生と言う後生の一大事を解決していくことが重要なのです。

私たちの人生の目的は、この後生の一大事を解決すること以外にありません。

ーーーーー

といった内容はわかりやすいように思いますが、そもそも論として阿弥陀如来である必要があるならば、世界中の人のほぼ99.999…%は救われないと言えるのではないかと思います。

これは元、浄土真宗で越中空華という学派の浄土真宗理解ですが、この学派を徹底した団体が親鸞会であると言えましょう。

親鸞会さんのそもそもの創始者は、西本願寺系の優秀な布教使さんであったことを考えれば、西本願寺のメジャーな教えとほとんど変わらない内容である事を知る人は、世間においてほとんどいないと言えましょう。

浄土真宗のお坊さん方は、この親鸞会さん以上の書籍をもっと書く人がいなければ、親鸞会さんの本のほうがわかりやすいと言うことで、世間の方はこの出版物の影響によって、親鸞会さんの言っていることが浄土真宗なんだと思うことになるでしょう。

2021-10-26 21:09:00

このまま…‼️

浄土真宗のみなさん、このままだと親鸞会さんが、世間のスタンダードになります😂⚠️

2021-10-25 01:37:00

ニセモノ⁉️

2019/10/24現在❣️(復習)

 

「偽」は、「人の為と書くでしょ」とよくいわれますが、

 

これは「人為」(じんい)というのが本来のようです。

 

「人為的になにかを為すこと」を「ニセ」というのです。

ここでわかるのは、、

 

「真実」は「自然の法」(自然即無我に至ること=利他力念仏)

「仮」は「さとりへの自我行」(自我力行)

(発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国=第十九願=さとりが真の楽を得ると知って[諸行をする])

(聞我名号係念我国植諸徳本至心回向=二十願=さとりが真の楽を得ると知って[自我力念仏をする])

「偽」は「人為的救い」

つまり、「さとり以外の救いを説く教え」(仏教以外=外教)という種別です。

 

化身土文類は「この論点を明確」にして「真実への誘引」が「自然の法」によって成され、

それは、「外教を含めたすべてである」という内容に広められているというポイントが、、

「化身土文類の本巻」が「仏教」

「化身土文類の末巻」が「外教」となっていて、

 

ラストが「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。

結ばれている「理由」でもあり、

 

この菩薩は「一切菩薩即法蔵の一菩薩」ということであるといえます。

 

つまり「この教えは人為的救いを説くもの」も「世界宗教も」すべて「その根底は《自然と無我》に至る誘引」から「摂取のため」に「無色無形絶言」「無碍光」の真理から「出ている」という側面と、、

 

だから「可能な限り、無碍光の真実を行じるもの」になるようにという「深意」があると読むことができなければ、

「救いの本質が《全宇宙的》であり、十方衆生への自然の法である」とはいえなくなるでしょう‼️

 

【観察行】について。。

昨日「お尋ねがあったので記述」します。

「観察行」について、「五念門でも五正行でも」《なにを観察するのか》ということについて、

「一切の仏性」であり、「自然と無我」=「有為の根拠である無為」だということを定義しています。

ーーーーーー(お尋ねから)

今日はお久しぶりにお目にかかれてうれしく思いました。

今日お話が途中になりましたが、五念門の具体的事例として、

まずは、おっしゃっていたように家族と共にお仏壇で礼拝すると言うことをやっていただき、その延長線であったり、ご家族との夕食の時間でもどのようなシーンでも良いので、まずは仏陀釈尊の無常無我の教えによって思うことなどを語り合っていただいたり、日々の中でご自身が病気などを通してどういうところで怖れを感じて自分自身にプレッシャーをかけていたかといった実体験に基づくことを話題にしていただくと言うのも良いと思います。

それが、法蔵菩薩の行である五念門の真理への屈服礼拝から、阿弥陀の光明によって知らされた自ら作り出したプレッシャーに自らが振り回されていたことに目覚めさせられた。

と言ったことを讃嘆として語っていかれたり、ご家族のご意見を聞いてみられたりするのも良いでしょう。

そして、〇〇様の命がどのように動こうとしているかと言うことを計らいなく純粋に見つめて、その〇〇さんの命の願いについても、話題にされて行かれたら良いかと思います。

そして、人間観察などをするなかで、世の中の状況や情勢をも観察の対象として、その中で感じたり思うことも話題にされたら良いかと思います。

そういった礼拝、讃嘆、作願、観察から自分の日々の歩みと願い(命の目的)を明確にしていきながら、それを実行していくと言う回向発願の歩みをスタートされると良いかと思います。

それは、人間の楽しみの中で行うこともできると思いますし、仏教は単純に真理を明確にし、迷う事は無いですよ、パニックになることも、不安に怖れることもありませんよと言う教えです。

こうであらねばならないと言うことを教えているものではありません。

ねばならないと言うありがとう歩んでしまうと、教条主義になって本来苦から解放される教えが、そうであらねばならないという新しい苦を生んでしまいます。

煩悩の林に遊ぶが如く、戯れるが如く、〇〇さんの命が仏教によって、より楽しくなっていく姿をご家族に見ていただくと言うことが、大会衆を導いていくようになっていくことでしょう。

大乗仏教の根幹とも言える華厳経を親鸞さんも根幹にしておられると思いますが、華厳経の善財童子が53人の人を訪ねていって人間と命のあり方と悟りと言うことを明確にしているのですが、この善財童子は、遊女なども訪ねて学びをされています。

そんなふうに、すごい人とか偉い人とかそんな人に学ぶと言うよりもどんな人でもどんなシーンでも観察すると言う事は大きな学びや知恵になるものです。この観察と言うことを難しく考える必要もなく、人間観察ウオッチングという気軽な感覚で取りくまれる方が良いものです。

2021-10-24 17:42:00

存在‼️

人間が認識していることはすべて幻想である。

 

真実などないというパラドックスに真実はあり、

そこに神智学のいう神がある。

 

人間の認識が幻想ならば、神という幻想を真実として認識する。

そしてその幻想である神は「神が作った幻想」である。

 

そこに真実を真実として見据えていくところに「神智学」の教える奥深さがある。

 

ここにおいて「仏」も「真実の神」が幻想として認識させている真実であると「仏教徒」はいいたい。

 

近代になって神智学を失った者たちが「神の実存」を人間の認識やイデアなどという観点から認識しようとするから、、

 

「神はいない」という存在が問題になってしまうのである。

 

ある意味唯物史観である。

 

神智を学ぶということは、「幻想という人間の認識の根源」に幻想の神という「真実の神が在る」という前提が必須である。

 

近世の哲学者などがミスったのは、人間の認識によって神を理解しようとしたことであり、現代の宗教者においても、神の存在証明ができないという「浅い思索」から神を理解しようとしていることである。

 

「神がいるかいないのか」という問題を幻想的認識しかできない人間が論じるには、あまりにマクロにおいてもミクロにおいても無理がある「ということに目覚めたもの」こそが、、

自らの見識の狭さを知り、「神ないしはそれに準ずるところ」に謙虚をもって、神智を学ぶと姿勢が生まれるのである。

 

物理学においても、なかなか「相対性理論や量子論」の11次元を超えられない、アインシュタインですら、神への畏敬の念を持っていたということが意味するところでもある。

 

つまり宇宙や地球や生命体そのものを研究できても、それらがそもそもどこからきたのかをまず「真の意味で理解していない」という、思考の順序を間違えているからである。

 

神智学の奥義には、そこが明確なのであるが、これは「秘密」として現代も守られているため、内容を知る人は少ない。

 

また現代に至るまでの多くの物理学者や数学者なども、そのメンバーであるなどということも知られていない。

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