インフォメーション(日々更新中)
2021-06-09 22:11:00
生きる理由‼️
なんのために生きる。。
これに正解はないことはわかるだろう。
しかし、「あなたは、何のために生きるか」と言われれば、
「食べるため」とも言えないだろうし、
それは「人ごとに違う」ということはわかるだろう。
「子育てのため」「社会に奉仕するため」
「より良い頭脳を作り社会に貢献するため」
なんて色々あっていい、
けれど、「何もない」となると「空虚に生命を生きている」と感じるかもしれない。
「お金を儲けるため」という人は「目的と手段」を間違えている。
「お金をどう使うか」が目的であり、
「儲けること」は手段でなければ、世に流して皆が生きるためのお金を吸い取るドラキュラのようなものである。
経済という言葉が「経世済民」(世を経て民をすくう)ということからしても、ドラキュラは誰も救わない。
また人間は生まれて「泣き」親が来て「笑う」というところから見ても、
人間が単独で生きられないことを意味している。
一族だけが生きてもDNAが劣化することも多民族または「他人」を必要とする「種」であるということである。
さてあなたは何のためにこのいのちを託すのか。。
それがあなたの生命がここにある理由である。。
2021-06-07 19:10:00
無為法‼️
そもそも「仏願の生起本末を聞く」というのは、「日々《仏願とともに歩む》ことで」「択滅無為法」を「観察できるようになる」という重要ポイントがあるということです。
これは、《自然》に対して「屈服礼拝」し、「言説讃嘆」し、「さとりへの願いである四十八願を自己の願に置き換え作願」して「択滅無為法を観察」し、「さとりに向かうように回向された願を行じる回向発願」するというなかで、
「横超の願」は「人間に《択滅無為法》を示す願い」として重要なのです。
ですから【78】に、「六趣(六道)、四生」の因果が滅する。また、「頓(とん)」に「三有の生死を断絶する。。。」と「択滅無為法」を受け入れれば、「有為法の迷界」を脱出することができると記述されています。
2021-05-31 23:30:00
倶舎論からの試論‼️
【倶舎論からの試論】
五位七十五法や六因四縁五果の因果論から言って、
阿弥陀仏が無為法身という無為法である以上、因にはなりません。
また信心は「疑蓋無雑」(疑いフタない)である以上有為法のわたしの心の在り方になります。
教行証文類にあるように、無為法から「信力」が起こるとするなら「信力増上縁」なのです。
「如来から信心をいただくなんていうこと」は無為法が因になるといってるようなもので、成立しません。
あくまでも「わたしの疑いの蓋がない」という状態は、「仏縁」による有為法のわたしの行為になるわけです。
そしてこの場合には、「疑いのフタ」をとったわたしに、悟りへの増上力が入って来て「着床」してこそ、わたしの「仏道がスタート」します。
この辺の仏教理解が真宗学に見られないのは、「教行証文類」研究の歴史が浅いからとも言えます。
【倶舎論からの解釈(試論)】
時間について「大経」にも「過未現」とあり、「去来現」とあって、「いま」の刹那にわたしが行ったことは刹那に過去法になる。
そして五位七十五法のいずれかの法が強く「未来法」として落捨してくるけれど、どの法を受け取るかによって「現在法」がきまる。
そのなかで「無為法」を受け入れれば、無為法に生きる過去法が累積して、やがて「仏になる」のである。
ここで未来法から「去来現」の無為法(真如)から「来」した「如来」を受け入れる信力増上によって、「無量寿仏」への「疑蓋無雑」になって、現在法が真如無為法によって観察できるようになるから、「いま現生」から変化が起こってくるのである。
それが「無碍光」の「智慧による慈悲」であるといえる。
2021-05-29 03:39:00
1泊2日の集中講義‼️
この2つ日、富山に行き「教行証文類」の集中講義をしてきました。
1人の僧侶にマンツーマンで行いました。
料金はいただいていません。
しっかりと初期仏教の十二縁起→倶舎の五位七十五法、時間論、因果論などを軸に行文類をしっかりと学んでいただきました。
みなさんもご希望があれば伺います。
ご遠慮なく‼️

