インフォメーション(日々更新中)
2021-06-07 19:10:00
無為法‼️
そもそも「仏願の生起本末を聞く」というのは、「日々《仏願とともに歩む》ことで」「択滅無為法」を「観察できるようになる」という重要ポイントがあるということです。
これは、《自然》に対して「屈服礼拝」し、「言説讃嘆」し、「さとりへの願いである四十八願を自己の願に置き換え作願」して「択滅無為法を観察」し、「さとりに向かうように回向された願を行じる回向発願」するというなかで、
「横超の願」は「人間に《択滅無為法》を示す願い」として重要なのです。
ですから【78】に、「六趣(六道)、四生」の因果が滅する。また、「頓(とん)」に「三有の生死を断絶する。。。」と「択滅無為法」を受け入れれば、「有為法の迷界」を脱出することができると記述されています。
2021-05-31 23:30:00
倶舎論からの試論‼️
【倶舎論からの試論】
五位七十五法や六因四縁五果の因果論から言って、
阿弥陀仏が無為法身という無為法である以上、因にはなりません。
また信心は「疑蓋無雑」(疑いフタない)である以上有為法のわたしの心の在り方になります。
教行証文類にあるように、無為法から「信力」が起こるとするなら「信力増上縁」なのです。
「如来から信心をいただくなんていうこと」は無為法が因になるといってるようなもので、成立しません。
あくまでも「わたしの疑いの蓋がない」という状態は、「仏縁」による有為法のわたしの行為になるわけです。
そしてこの場合には、「疑いのフタ」をとったわたしに、悟りへの増上力が入って来て「着床」してこそ、わたしの「仏道がスタート」します。
この辺の仏教理解が真宗学に見られないのは、「教行証文類」研究の歴史が浅いからとも言えます。
【倶舎論からの解釈(試論)】
時間について「大経」にも「過未現」とあり、「去来現」とあって、「いま」の刹那にわたしが行ったことは刹那に過去法になる。
そして五位七十五法のいずれかの法が強く「未来法」として落捨してくるけれど、どの法を受け取るかによって「現在法」がきまる。
そのなかで「無為法」を受け入れれば、無為法に生きる過去法が累積して、やがて「仏になる」のである。
ここで未来法から「去来現」の無為法(真如)から「来」した「如来」を受け入れる信力増上によって、「無量寿仏」への「疑蓋無雑」になって、現在法が真如無為法によって観察できるようになるから、「いま現生」から変化が起こってくるのである。
それが「無碍光」の「智慧による慈悲」であるといえる。
2021-05-29 03:39:00
1泊2日の集中講義‼️
この2つ日、富山に行き「教行証文類」の集中講義をしてきました。
1人の僧侶にマンツーマンで行いました。
料金はいただいていません。
しっかりと初期仏教の十二縁起→倶舎の五位七十五法、時間論、因果論などを軸に行文類をしっかりと学んでいただきました。
みなさんもご希望があれば伺います。
ご遠慮なく‼️
2021-05-27 02:26:00
坊さん‼️
酒を飲んで「雑談」にふけっている僧侶が、本堂に入ると「お念仏申すモード」がONになるようである!
これだけ情報があっても「自宗派」しか見ない、戦前のような方々が「聖職者」なのです。
「お念仏申すひとが減った」というが、街を歩いていても、電車に乗っていても、そういう人はいない!
「勧学(浄土真宗お西の学者のトップ)にならんと話をちゃんと聞いてくれんから、シャーナイなったんや」
我が師は「勧学」になった時にわたしに言った。
我が師の言葉は真実心から出ている。。
しかし世の僧侶において、日本仏教会会長なんていうふうな、「肩書き」に必ずしも中身は伴わない。
しかし確かに「仏教界でさえ世俗的な肩書き」がものをいう。